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TORENDIA

春屋の書について

本文約1,000字 ・ 読了時間 約3分

あらすじ(AIが作成しました)

大徳寺の名僧・春屋をはじめ、江月、元政、良寛らが遺した墨蹟について論じる。高僧の書には悟りから生じる天真爛漫な見識が宿り、技術を超越した気格がある。対照的に、技術的な上手さを追求する近代書家たちは、職工的な価値しか持ち得ず、真の芸術に対する悟りの眼が欠けていると指摘する。宗教的背景を持つ高僧の能書がいかに尊く、後世に長く遺るべき存在であるかを独自の書道観に基づいて綴る。

北大路魯山人

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🎧 春屋の書について / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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春屋は大徳寺の名僧で、慶長十六年示寂している。

高僧の墨蹟には能書が多い。儒者の書には存外能書がない。これは仏教と儒教の影響する現象である。同じ高僧でも鎌倉以上に溯っては、いよいよ能書が多い。宗園春屋は慶長であるから、ぼつぼつ高僧の影を没する時期だ。春屋のような天真爛漫な、しかも見識のある書を書くものは、それ以後江月欠伸子、深草の元政、ずっとおくれて良寛があるくらいのものであろう。

僧侶の書は、宗教から悟りを得た産物ではあるが、それでも僧侶の臭さがあり、型がある。この臭さと型のあるものは、未だ悟り切らざるものといっていい。その中に、前記の名僧たちが悟った、いわゆる臭くない能書を遺していることは、充分注視しなければならない。

宜なる哉。已にそれらの能書は、多くある高僧墨蹟の中から特に喧ましい存在となっている。しかるにそれらの書が、今の書道界に果して喧ましい存在となっているであろうか。遺憾にも世上のいわゆる近代書家なる者は、これらの書に対しては殆ど認識不足であるようだ。いやいや彼等は認識しているつもりであるかも知れない。

“拙い書だ”と。

“どうしてこんな書が貴ばれているのだろう”と。

“世上の認識が誤っているのではないか”と。

“全く世上が筆者の高名に惑うて拙い書を、うまい書でもあるかの如く誤っているんだ”と。

いうところの書家なる人々は、以上のような見方をしてはいないだろうか。書家は書を拵えて旨い字を書いて能事終るとしている観がある。ところが僧には限らないが、およそ見識ある者は、技術上の能事のみには没頭していない。いわば、上手下手を手腕の外に超越している。自分の気格を以て、すべてを終始している。皮肉なことに、この下手を屈託しないほどの見識ある人間に限って、いつも能書を遺している。

それにひきかえ、下手を屈託して、上手の一途を欲する書家たちは、かえってなんの価値も遺すところがない。あるのはただ職工的価値のみ。これはとりもなおさず、書道観に悟りの眼が開いていないからだ。そこへ行くと俗僧たちは別として、僧侶は宗教によって芸術に悟るところがある。さればこそ、高僧の書は尊く、永く遺るのだ。

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