TRENDIA CLASSIC

舌のすさび

吉川英治

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あれはもう何年前か。とにかく晩春だった。陛下をかこんでおはなしする会が皇居内の花陰亭でもよおされた。文化人四、五名お招きうけてである。――その雑談中のことであったが

『陛下。陛下はマル干シを召上がったことがおありですか』と獅子文六がきいた。『マル干シ?』と陛下はけげんなお顔をなされた。『さあ、どうでしょうな』と、そばから徳川夢声。すこし間をおいて、入江侍従が『おそらく御存知ありますまい』とつけ加えた。味覚の説明はむずかしい。わけてマル干シの味境などをご理解に訴えるなどは至難であるからこの話題はしぜん花が咲くにいたらなかった。ただ獅子文六はちらと『ご不幸だな、やっぱり』と言いたげな顔つきだった。このあと、火野葦平が鰻のはなしをもちだしたが、うなぎについては、われら以上おくわしい。もっとも蒲焼のタレだの味だのという面からではなく、もっぱら、ご専門の生物学のほうから仰っしゃるうなぎであった。

その後秋山徳蔵に会ったとき、このことを言ったら『いやそんなはずはない、ずいぶん広いはんいの物はさしあげている。ただ片手に箸、片手で茶漬茶わんをおいたその指でマル干シの尻尾をつまんで咥えるといったようなマル干シはさし上げていないだけのことだよ』と、弁明していた。なるほどそうであろう。下世話の味はやはりゲテの姿でなければそれ本物とは申されまい。マル干シ二、三尾、チョンチョンと首を切って、きれいな器でもったいらしく出されたって、それが料亭のツキ出しなればこそ、黙ってたべているが、家庭だったら『よしゃアがれ』と、台所へ突っ返したくなってしまう。

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