本誌(大法輪)の二十五年に因んで、僕の二十五歳頃を語れと仰っしゃるんですか。さあ今の青年とちがって、僕らのその時代は無我夢中でしたな。合理主義、利己主義、そんな風を卑しむ風潮の中で、いわゆる青年の客気満々でしたよ。無一物で東京に出てきて、苦学しながらも、夢だけは、いつも失っていないんです。だから素寒貧でいながらも、気宇だけはまあ今のリアルな青年よりは豊かだった。そしてどうやらささやかな家を一軒持って、両親と一緒に暮せるようになったのが二十五歳前後でした。まだ新聞社にもつとめておりませんでした。職業も転々と更えていました。そのころ呟いた自分の句に「この先を考えている豆の蔓」というのがあります。その豆の蔓みたいな自分でした。
二十七歳のとき父を亡くしましたが、その父すら亡くなる一週間ほど前に、「英治はどうして食べてゆかれるのか」というような意味のことを母に言っていたそうです。なんとも慚愧の念にたえません。
やがて「東京毎夕新聞」の学芸部に入ったのが三十歳頃でしたが、その時分、ちょうど倉田百三氏の「出家とその弟子」だとか、その他親鸞に対する一般認識が非常に高まっておりました。僕は本紙の「日曜付録」を一人で取材もし編集もしていたわけですが、それに童話を書いたり、訪問記事を書いたりしておる上に、あるとき、社長から僕へ直接いきなり『「親鸞」を書け』といわれ、それが新聞小説の処女作になった僕の「親鸞」なんです。特に親鸞研究に没頭する準備もなく社命ぜひなく社の文庫や図書館通いをあてに始めたのですからまことに盲ヘビにおじざるものです。とにかく毎日新聞面に一段というと相当の分量ですが、それを一方で訪問記事を書いたり、学芸部の仕事もしながら書くのですから、毎朝みんなより二、三時間ずつは早く出社したものです。それも今のように原稿用紙へちゃんと書くのでなくて、デスク用のザラ紙に鉛筆で時間に追われながら毎朝毎朝書き続けるのです。時間になると工場から植字の少年がとりにきて、書けたのを一枚一枚僕がまだ読み返しもしないうちにうしろからのぞいて持って行ってしまうといったようなものでした。