文化の日
本文約2,400字 ・ 読了時間 約5分
あらすじ(AIが作成しました)
文化の日の朝、雀の姿に平和を感じつつ、著者は都市と地方の文化的な格差や、真の文化国家への道のりについて論じる。また、刺激を求めるのではなく、坦々とした日常生活の中にこそ幸福があると説き、都市偏重で畸形的な日本の現状を省みる。戦後の急速な復興の影で忘れ去られた地方のあり方を問い直し、全土が相互に作用し合いながら、幸福を分かち合える健全な文化の発展を願う随筆。
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文化の日、十一月三日というと、ぼくら明治生まれのものには、降る雪も――だが菊の香も明治も遠くなりにけり――の感が深い。だから文化の日の朝はいつも少年期への想いにつながる。
けさも、茶の間のえんさきで雀を見ていた。そしてふと、このごろは東京の雀もキレイになってきたなと思った。なぜなら終戦後数年間は雀までが焦土によごれてウス汚かったものである。それからやっと雀のオベベも今朝は文化の日らしく美しかった。『平和とはこういう物と名づけたり』と私はひとりつぶやいた。そのせいか番茶のかおりもばかに美味い。
もちろん近年キレイになってきたのは、あに雀のみに限らんやである。都市、服装、交通、住宅、いちおう外観はまあまあのていどにまで上昇してきた。だがまだ文化国家と誇るには文化の日を幾十秋も重ねなければ、文化万歳と呼べそうもないことは選挙演説会の会場をのぞいただけでもすぐわかる。ほんとの文化には雀の姿にあるような平和と安心がともになくてはならないものだが、各党の党士の雄たけびを聞けばやたらに不安ばかりが増してくる。といって国際間の谷間にある日本であってみれば協和と祈りしかないのだから、せめて国内喧嘩とウス汚い不精だけはやめて、都市も美しく、女性もいよいよきれいに、そして田園もその生活も小ザッパリと日本的な知恵による暮らしの仕組みを少しずつでも進めてゆくようにしたいものだ。
ところが、できることでもこのごろはやりたがらないクセがぼくらの社会にはいってしまった。たとえば、文化の日とか元日の朝ぐらいは家々の前はキレイに掃くという習慣をやりあってみたらどうか。全市スガスガしい朝を見るだけでもお互いの心が和むと思うが、休日の街ときたらまるで紙クズだらけが寒々している廃虚の観だ。ある休日の朝早く所用があって銀座裏から商店街をあるいたとき、私はまったく都市人の不精さとよく口にする平和だの文化観などにどれほど本気なのやらと疑った。どうやらまだ日本人は雀ほどには羽が抜けかわっていないらしい。