啓蒙の現代的意味と役割とについて
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あらすじ(AIが作成しました)
現代日本における「啓蒙」の概念が、教育や宣伝と混同され、その社会的役割が正当に認識されていない現状を指摘する論考。著者戸坂潤は、啓蒙を教育とは異なる政治的変革の方向性を持つ活動と位置づける。同時に、それは直接的な政治闘争や煽動とは一線を画した純文化的な性格を併せ持つと論じる。本書は、ファシズム的言論や虚偽宣伝に対抗する手段として、啓蒙活動が現代社会においていかに不可欠であるかを考察する。
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現代の日本に於ては教育家というものは数え切れない程存在している。少くとも教育という問題に関心を持っている者は、他の関心の所有者に較べて圧倒的に多数だ。教育雑誌の数は雑誌の内で一等多いことは広く知られている。単行本の数も一位から三位とは下らない。
処が一見教育に関係の深そうな啓蒙活動となると、第一にその観念が世間では一般にハッキリしていないばかりでなく、それが社会に於て占めるべき掛けがえのない位置に就いても少しも、徹底した観念が世間では行われていない。断るまでもなく、啓蒙は教育と同じ観念ではあり得ない。啓蒙というカテゴリーに這入らぬ教育や、教育のカテゴリーに這入らぬ啓蒙が大事な点であるのだ。処がそれが現代の実際社会に於ては簡単に教育というような種類の観念にブチ込まれて了ってさえもいるようだ。だが又実はそこに、この二つのものの根本的な区別の一端も亦、最もよく現われている。教育と云えば日本では多少とも国家機構の上で一定の位置を与えられた公認の社会的機能のことと考えられているのであるが、啓蒙は事実今日の日本では、決してそういう確固とした公認の社会的機能などとは考えられていない。この際啓蒙活動は精々知識の普及とか通俗化とか大衆化とかというような形で、教育家の臨時の片手間仕事位いにしか値いしないことになっているようだ。