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TORENDIA

詩壇への願ひ

本文約1,600字 ・ 読了時間 約4分

あらすじ(AIが作成しました)

詩壇の現状と、作品に命を吹き込む「点睛」の必要性を論じる評論である。芸術不振の原因を社会事情に求める見方を否定し、芸術家自身の感動の深さが重要であると説く。さらに自力のみを恃む姿勢の限界を指摘し、完全な美を実現するために、超絶的対象としての他力や宗教的な信仰が不可欠であると論じ、詩壇に対して他力信心という視点を持つことを提案する。

中原中也

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詩壇は今や、一と通りの準備をすませた。絵の具も画架も揃ひ、まづまづ龍は描いたが、まだ点睛がないといふのが昨今の状勢である。従つて各人各様の特質にも拘らず、可なり大同小異の観があることは脱れられない。扨今後その中の若干なり未知の人なりが点睛を示し始める時、詩壇ははじめて面白くなるのであらうと私は思つてゐる。

そんな次第であるから、今私は「私の推賞する詩人」といふ課題を貰つたのだが、今誰をといつて格別推賞したくはない。そこで私は此の後詩が点睛を得るためには、どんなことが必要であらうかといふことを、考へてみることにしたいと思ふ。今の詩に何が欠けてゐるといつて、感情よりも欠けてゐるものがあらうとは思へない。

扨その原因を、暗中模索の揚句、社会問題に持つて行つて、其処で解決を得られると思ふ人も相当あるけれども、私にはさうは思はれぬ。勿論其処にもその原因の説明に役立つ材料はあるかも知れぬが、根本原因はそんな所にはない。芸術不振の原因を社会の事情に在りとする見方は、常に十分なものではない。

例へば日々報道される様々な事件が、昔人間の数の少なかつた時よりも、人の感動を鈍らせ易いものだといふことが云へるとしても、而も芸術とはさういふ事情の問題ではなくして、さういふ事情の中にあつても猶感動する人がゐたら、その人が感動した感動に基因して表現するに到る所のものである。要は、芸術家その者の感動の深浅が問題であつて、「事情」はあくまでも与件にしか過ぎぬ。諸君がもし一個の林檎に如何にも惚れ惚れとしたら、それを描きたくなるであらう。その時その林檎と、果実商組合とは何の関係もない。要は、その林檎に如何にもほれぼれとしたら諸君は芸術家だといふことだ。

林檎なぞに感動してはをれぬといふ人があるかも知れぬが、お望みとならパンにでもルンペンにでも感動するがいい。感動したらその感動がやがて芸術であり、何もその感動の誘因となつたパンが芸術でもなければルンペンが芸術でもない。

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