幸福人
あの座敷に寝ころんで見たら、房総の海も江戸の町も、一望であろうと思われる高輪の鶉坂に、久しくかかっていた疑問の建築が、やっと、この秋になって、九分九厘まで竣工た。
お茶屋でもなし、寺でもなし、下屋敷という造りでもない。一体、どんな大家族が住むのであろうと、下町では、話題になっていたが、さていよいよ、引っ越しの当日、ここへ移って来たものは、痩躯鶴にも似たる老人が、たッた一人。
尤も、召使いは、四、五人ほど来たらしいけれど、荷物と言っては、古びた書箱と机と、いと貧しい世帯道具が一車、ガタクラと、その宏壮なる新屋敷へはいったのみである。
孤独な、老い先のない身で、こんな大きな建築をやって、彼は一体、何が満足なのだろう。単なる、普請狂とも思われない。
彼は毎日、家のまわりを、ひとりで逍遥して、独りでニヤニヤしていた。そういう時の彼の笑い顔は、実に柔和で、明るいかがやきが溢れている。人の性格や境遇が、その時々に依って、ありのままに人相にあらわれるものならば、彼は現在、よほど幸福であるにちがいなかった。
やがて嫁
「おう! これや初客じゃ! 富武五百之進殿が、初客にござったとはかたじけない。――なに、花世さんもご一緒か、これはいよいようれしい」
「これ花世、何が恥しい、こちらへ参って、ご挨拶を申さぬか。――どうも、いつまでも、子供で困る」
「なに、子供どころか、貴公よりは、背丈が高い。それに、しばらく見うけぬうちに、たいそう美人になったのう、あはははは。……何せい、よく訪ねてくれた。――ま、早速だが、見てくれい、わしの建てたこの家を」
人恋しいのであろう、意外な訪問者を迎えて、老人のよろこびかたは非常なものであった。
「……ほう、部屋数が二十七もあっては、たいへんだな。どうじゃ花世、広いものではないか、ウム……眺望もすばらしい」
富武五百之進とは、誰も知る、番町の旗本、四十四、五の年配で、見るからに、几帳面そうな人物。
いわゆる、御番衆というと、いったいに、風儀の悪い方だが、江戸城でも、書院詰のものだけは、悪風に染まず、品行が正しいといわれている。