TRENDIA CLASSIC

夕顔の門

吉川英治

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十九の海騒

『はてな。……閉めて寝た筈だが』

と、若党の楠平は、枕から首を擡げて、耳を澄ました。

――風が出て来たらしい。

海が近いので、庭木には潮風が騒めいている。確かに、寝しなに閉めたとばかり思っていた庭木戸の扉が、時折、ばたん――ばたん――と大きな音を立てている。

楠平は、手燭を灯けた。そして揺れる灯を庇いながら、庭へ出て行ったが、主人たちの住む南側の母屋を見て、眼を恟めた。

『あっ、お市様の部屋が開いている?』

口走りながら、楠平はそこへ寄ってみた。雨戸が二尺ほど開いているし、縁の内をそっと覗くと、暗くてよく分らぬが、何か取乱れている気配がする。

『――お嬢様、お嬢様』

ふた声ほど呼んでみた。

返辞はない。

楠平はすぐ、はっと或る予感の的中を思って、体が顫いた。

明日は、家中の人、曾我部兵庫へ嫁ぐというので、きょうも一日、曠れの荷物や、何かの支度に、忙しく暮れたこの部屋だった。

『旦那様っ、旦那様っ。――お嬢様のお部屋が開いておりますが。そして、お嬢様のお声もしませぬが』

雨戸の外から、主人の寝所をたたいて彼が告げると、

『なにっ、娘が居ないと?』

田丸惣七の夫婦は、刎ね起きたらしく、遽に家の内には、狼狽する気配が聞かれた。

娘のお市の行状に就ては、田丸惣七夫妻も、薄々は一抹の気懸りを抱いていたものとみえて、

『さては、格之進めに唆かされて、明日を前に、立ち退いたものとみえる。……不! 不埓者めが!』

と、狼狽の中に、惣七の怒りの声が洩れたと思うと、軈て、

『おまえが悪いっ。女親として、知らずにおる事があるものか』

と、彼女の母親を、恐しい声で叱りとばした。

――わっと、泣き伏す声がした。お市の母が悔い泣くのである。

その泣き声を、惣七は又叱りながら、

『ば、ばかめ! 泣いていて済む場合か。遺書を見い、上方へ行くとある。わし達が寝む迄は、何の気振も見えず、この部屋の灯影に姿が見えた彼奴だ。――差しずめ、一刻も早く、手配をするのが肝要じゃ。まず斎地どのへ報らせに行け。岡村へも、野坂へも。――早く、早く』

――まだそう遠く迄は走っていまい。

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