梅里先生行状記
本文約206,400字 ・ 読了時間 約413分
あらすじ(AIが作成しました)
水戸藩の隠居である光圀は、西山荘での質素な暮らしを送りながら、家臣や民草の安寧を常に願う。藩内で起きた不穏な動向を察知した光圀は、多くの関係者が関与する連判状を密かに入手する。能の舞台に立つという公務の直前、自らの手で首謀者を裁く決断を下した光圀は、直後に平然と春日龍神の舞を披露する。その後、西山荘の庭で落葉と共に証拠を焼き払い、関与した者たちの罪を一切不問に付すことで、広範な臣民の命と未来を守り抜く姿を描く。
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恋すちょう……
一
二月の風は水洟をそそる。この地方はまだ春も浅い。ひろい畑は吹きさらしている。
昼まになっても、日かげの霜ばしらは、棘々とたったままだし、遠山のひだには、まだある雪が薙刀のように光っていた。
「麦踏め、麦踏め。――芽をふめ、芽をふめ、芽をふめ」
畑のなかで独り言が聞える。寒さと風に対抗しながら、それはだんだん大声となった。麦畑で、麦を踏んでいる老人の唇からである。
むこうの方でも、ふたり程、鍬をもって麦の畝をすいていた。
「老公か。……あのお声は」
ひとりがひとりへふり向くと、鍬の手をやすめ合って、
「はははは。そうらしいな。寒さを克服なさるため、足拍子にあわせて、書物のうちのお好きな辞句でも、吟誦していらっしゃるのであろう」
「いや。……」と、ひとりは耳たぶへ手をあてがいながら、
「麦ふめ麦ふめ。芽をふめ芽をふめ。と聞えるが」
するとすぐそれは聞えなくなって、彼方にいる老百姓が、麦踏みをやめてしまい、こっちを見ているふうである。胸にまでかかりそうな白い髯が、風のなかに著しく光って見える。
「おううい」
やがて聞えてくる声に、ふたりはあわてて鍬の柄を持ちかえ、
「あ。呼んでいらっしゃる」
何はさておきと、駈けだして行った。
「お召でしたか」
ひざまずいた膝のつきよう、横においた鍬のおきよう、ただの農夫ではあり得ない。
主従ともに野良着はつけているが、老百姓のほうなど、なおさらそれに見えなかった。寒かぜに赤くひき緊っている顔は、どこか大人の相をそなえ、大きくて高い鼻ばしらから顎にかけての白髯も雪の眉も、為によけい美しくさえあった。
「林助、悦之進」
「はいっ」
「あさっては、月並の汁講の日になるの」
「左様でございます」
「今月はわしが宅をする当番であったな。みな集まって参ろうな」
「みな楽しみにしております」
「皿、杯などの数が足るまい」
「どういうご趣向にあそばしますか、お小納戸の剣持与平なども、お支度に気をもんでおりましたが」