梅渓餓鬼草紙の中に住む
一九先生に会うの機縁
山谷堀の船宿、角中の亭主は、狂歌や戯作などやって、ちっとばかり筆が立つ。号を十字舎三九といっていたが、後に、十返舎一九と改めて、例の膝栗毛を世間に出した。
それが馬鹿な売れ行きをみせて、馬琴物も種彦物も影をひそめてしまったので、一九は、すっかりいい気持だった。
待乳山が近い二階の北窓に、文人ごのみの机をすえて、よく鼻毛など抜いていたが、この頃、毎日のように、ぴイぴイ泣く、近所の子供の声が、神経にさわってならないので、女房が上ってきた所を、いきなり呶鳴りつけた。
『てめえの耳は、ぬか袋か。あれが気にならねえのかよ。なんでえ、あの餓鬼ゃあ、きのうも今日も、まんまー、まんまー、と雨垂れみてえに、朝から晩まで、泣きいびってやがる。なんとかして来い』
『よその子を、どうなるものかね。それに、御浪人じゃないか。うっかりした事を、いえやしない』
ふくれながら、女房は、外へ出て行ったが、戻ってくると、慌てて、大きな塩握飯を二つこしらえて、前掛の下に、小皿を隠して出て行った。
ひどい裏店で、一軒一軒が生ける餓鬼草紙の絵だった。ドブ板さえ焚き付にされている狭い路地を、女房は、何気なく通りかかった振りをして、雨垂れ泣きの洩れる台所から、
『おや、坊ッちゃま、どうなさいましたえ』と、覗きこんだ。
『あれ、これが、欲しいんでございますか。これは、坊ッちゃまの食がるような物じゃございませんよ。オヤ、お泣きなさいますね。じゃ、置いて参りましょう。玩具になさいましよ』
と、握飯の皿を置いて、大急ぎで帰ってしまった。
画家の田崎梅渓と妻女のお菊は、奥で――といっても、六畳一間、やぶれ障子と、屑屋も逃げるような雑器のほか、何物もない。――暗然と、顔を見あわせて、
『ああ、美味そうな……』
と、握飯の皿へ、本能的にしがみついて、音をたてて食べているわが子、まだ、五歳の格太郎を、夫婦で、じっと見つめていた。
梅渓は、眼が熱くなった。お菊も泣いた。
『これだな、人間を邪悪にするのも、偉くするのも。この試練だ』