片信
本文約8,900字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
長い蟄眠期を終えようとしている著者が、兄へ宛てて近況を綴る書簡である。自身の人生哲学に基づき、自らを至当に処理していく生き方を説く。併せて、雑誌に寄稿した「宣言一つ」という一文をめぐり、芸術家としてブルジョアの立場に留まるべき自らの苦渋や、階級問題に対する独自の考察を論じる。また、各氏から寄せられた批評や議論に対し、自身の立場を改めて説明しつつ、今後の創作への展望を伝えている。
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A兄
近来出遇わなかったひどい寒さもやわらぎはじめたので、兄の蟄伏期も長いことなく終わるだろう。しかし今年の冬はたんと健康を痛めないで結構だった。兄のような健康には、春の来るのがどのくらい祝福であるかをお察しする。
僕の生活の長い蟄眠期もようやく終わりを告げようとしているかに見える。十年も昔僕らがまだ札幌にいたころ、打ち明け話に兄にいっておいたことを、このごろになってやっと実行しようというのだ。自分ながら持って生まれた怯懦と牛のような鈍重さとにあきれずにはいられない。けれども考えてみると、僕がここまで辿り着くのには、やはりこれだけの長い年月を費やす必要があったのだ。今から考えると、ようこそ中途半端で柄にもない飛び上がり方をしないで済んだと思う。あのころには僕にはどこかに無理があった。あのころといわずつい昨今まで僕には自分で自分を鞭つような不自然さがあった。しかし今はもうそんなものだけはなくなった。僕の心は水が低いところに流れて行くような自然さをもって僕のしようとするところを肯んじている。全く僕は蟄虫が春光に遇っておもむろに眼を開くような悦ばしい気持ちでいることができる。僕は今不眠症にも犯されていず、特別に神経質にもなっていない。これだけは自分に満足ができる。
ただし蟄眠期を終わった僕がどれだけ新しい生活に対してゆくことができるか、あるいはある予期をもって進められる生活が、その予期を思ったとおりに成就してくれるか、それらの点に行くとさらに見当がつかない。これらについても十分の研究なり覚悟なりをしておくのが、事の順序であり、必要であるかもしれないけれども、僕は実にそういう段になると合理的になりえない男だ。未来は未来の手の中にあるとしておこう。来たるべきものをして来たるべきものを処置させよう。