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TORENDIA

聴雨

本文約12,300字 ・ 読了時間 約25分

あらすじ(AIが作成しました)

昭和十二年、十六年もの沈黙を破り、名人位を自称する坂田三吉は、当代の花形棋士木村八段との対局に臨む。将棋以外に生きる術を知らぬ坂田は、自身の将棋の真価を問うべく、勝敗を左右する大一番で奇想天外な着手を放つ。将棋盤を人生のすべてとし、棋界の伝説となった男が、新進気鋭の近代将棋に挑む姿と、その対局に込めた執念を描く。

織田作之助

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午後から少し風が出て来た。床の間の掛軸がコツンコツンと鳴る。襟首が急に寒い。雨戸を閉めに立つと、池の面がやや鳥肌立つて、冬の雨であつた。火鉢に火をいれさせて、左の手をその上にかざし、右の方は懐手のまま、すこし反り身になつてゐると、

「火鉢にあたるやうな暢気な対局やおまへん。」といふ詞をふと私は想ひ出し、にはかに坂田三吉のことがなつかしくなつて来た。

昭和十二年の二月から三月に掛けて、読売新聞社の主催で、坂田対木村・花田の二つの対局が行はれた。木村・花田は名実ともに当代の花形棋士、当時どちらも八段であつた。坂田は公認段位は七段ではあつたけれど、名人と自称してゐた。

全盛時代は名人関根金次郎をも指し負かすくらゐの実力もあり、成績も挙げてゐたのである故、まづ如何やうに天下無敵を豪語しても構はないやうなものの、けれど現に将棋家元の大橋宗家から名人位を授けられてゐる関根といふ歴とした名人がありながら、もうひとり横合ひから名人を名乗る者が出るといふのは、まことに不都合な話である。おまけに当の坂田に某新聞社といふ背景があつてみれば、ますます問題は簡単で済まない。当然坂田の名人自称問題は紛糾をきはめて、その挙句坂田は東京方棋士と絶縁し、やがて関東、関西を問はず、一切の対局から遠ざかつてしまつた。人にも会はうとしなかつた。

彼の棋風は、「坂田将棋」といふ名称を生んだくらゐの個性の強い、横紙破りのものであつた。それを、ひとびとは遂に見ることが出来なくなつた。かつて大崎八段と対局した時、いきなり角頭の歩を突くといふ奇想天外の手を指したことがある。果し合ひの最中に草鞋の紐を結ぶやうな手である。負けるを承知にしても、なんと不逞々々しい男かと呆れるくらゐの、大胆不敵な乱暴さであつた。棋界は殆んど驚倒した。一事が万事、坂田の対局には大なり小なりこのやうな大向ふを唸らせる奇手が現はれた。その彼が急に永い沈黙を守つてしまつたのである。功成り遂げてからといふならまだしも、坂田将棋の真価を発揮するのはこれからといふ時であつた。大衆はさびしがつた。

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