浮世絵の曲線
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あらすじ(AIが作成しました)
浮世絵の色彩を取り去った後に残る、形状の異なる曲線の集団や黒白の配置に着目し、その美的要素を論じる。特に人物画における頭髪の黒斑や、髷・顔・襟・着物の裾などの輪郭線が作り出す音楽的なリズムや調和の様相を詳述する。歌麿以前の様式美と後代の描写を対比しながら、浮世絵における線が持つ節奏や諧調のあり方、そして画面全体の均衡を保つ役割について、個人の考察を綴る。
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浮世絵というものに関する私の知識は今のところはなはだ貧弱なものである。西洋人の書いた、浮世絵に関する若干の書物のさし絵、それも大部分は安っぽい網目版の複製について、多少の観察をしたのと、展覧会や収集家のうちで少数の本物を少し念入りにながめたくらいのものである。それだけの地盤の上に、それだけの材料でなんらかの考察を築き上げようとするのである。ちょうど子供がおもちゃの積み木で伽藍の雛形をこしらえようとしているのとよく似た仕事である。それが多少でも伽藍らしい格好になるかならないかもおぼつかないくらいである。しかし古来の名匠は天然の岩塊や樹梢からも建築の様式に関する暗示を受け取ったとすれば、子供の積み木細工もだれかに何かの参考になる場合がないとは限らない。
色彩をぬきにして浮世絵というものを一ぺんばらばらにほごしてしまうと、そこに残るものは黒白のさまざまな切片といろいろの形状をした曲線の集団である。こうしてほごした材料を一つ一つ取り出して元の紙の上にいろいろに排列してみる。するとそこにできたものは未来派の絵のあるものの写真とよく似たものができるだろうと思う。
しかしそのような排列のあらゆる可能な変化のうちで、何かしらだらしなく見えるのと、どこか格好よく調子よく見えるものとの区別がありはしないか。これはむつかしい問題ではあるが、そういう区別があるとしないとある種の未来派の絵などの存在理由は消滅しそうに思われる。
色彩を取り去ったあとの浮世絵の中に見いだされる美の要素がいかなるものであるかを考えるのは、結局前にあげた問題の答案を求めると同じ事に帰着するのではないかと私には思われる。
黒白の切片の配置、線の並列交錯に現われる節奏や諧調にどれだけの美的要素を含んでいるかという事になると、問題がよほど抽象的なものになり、むしろ帰納的な色彩を帯びては来るが、しかしそれだけにいくらか問題の根本へ近づいて行きそうに思われる。