カメラをさげて
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あらすじ(AIが作成しました)
新東京を写真機をさげて歩く著者が、カメラという特殊な目を通して街の断片を記録する様子を綴る。極端な古さと新しさが混在する東京の街並みは、多種多様な地質や人種が集まるこの国の縮図であると論じる。風景を愛でる国民性と、記憶力の鋭いカメラの特性への考察を交え、日常に潜む発見や一九三一年当時の都市の風俗を印画記録として収集する意義について語る随筆である。
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このごろ時々写真機をさげて新東京風景断片の採集に出かける。技術の未熟なために失敗ばかり多くて獲物ははなはだ少ない。しかし写真をとろうという気で町を歩いていると、今までは少しも気のつかずにいたいろいろの現象や事実が急に目に立って見えて来る。つまり写真機を持って歩くのは、生来持ち合わせている二つの目のほかに、もう一つ別な新しい目を持って歩くということになるのである。
顕微鏡も、やはりわれわれの目のほかのもう一つの目である。この目で手近な平凡なものをのぞいて見ると自分のいる周囲の世界が急に全然別物のように見えて来る。これは物の尺度の相違から来る観照の相違である。写真機の目の特異性はこれとはまただいぶちがった方面にある。この目はまず極端な色盲であって現実の世界からあらゆる色彩を奪ってしまう。そうして空間を平面に押しひしいでしまう。そうして、その上にその平面の中のある特別な長方形の部分だけを切り抜いて、残る全部の大千世界を惜しげもなくむざむざと捨ててしまうのである。実に乱暴にぜいたくな目である。それだけに、なろう事ならその限られた長方形の中に、切り捨てた世界をもいっしょに押し縮めたようなものを収めたくなるのである。それだから、カメラをさげて秋晴れの郊外を歩いている人たちはおそらく幾平方センチメートルの紙片の中に全武蔵野の秋を圧縮して持って来るつもりで歩いているのであろう。少なくも自分の場合には何枚かの六×九センチメートルのコダック・フィルムの中に一九三一年における日本文化の縮図を収めるつもりで歩くのであるが、なかなかそううまくは行かない。しかしそういうつもりで、この特別な目をぶらさげて歩いているだけでもかなり多くの発見をすることがある。