連句雑俎
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あらすじ(AIが作成しました)
日本の風土や自然環境、無常迅速という不定感が、俳諧連句の独自性を育んだ根源であることを論じる。西洋的な分析手法や物質主義とは異なる、東洋固有の感性が俳句や連句の基礎にあると説く。また、短歌連作と連句との形式的な共通点や相違点に触れつつ、連句制作における素材選択の心理過程や、前句と後句の連結がもたらす旋律的進行の重要性を綴り、俳諧という日本特有の芸術のあり方を考察する。
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一 連句の独自性
日本アジア協会学報第二集第三巻にエー・ネヴィル・ホワイマント氏の「日本語および国民の南洋起原説」という論文が出ている。これはこの表題の示すごとく、日本国語の根源が南洋にある事を論証し、従って国民祖先の大部分もまた南洋から渡来したものだと論断しようとするものである。この学説の当否についてはもちろん種々の議論があるであろうが、ここではもちろんそれは問題にしない。この論文の始めの序説中、日本人の独創能力に乏しい事を述べた一節に、チャンバレーン博士の言ったという言葉を引いて、「この邦土で純粋に日本固有というべきものはただ二つ、それは風呂桶とそうしてポエトリーである」と述べている。また「もっと意地の悪いある批評家は『だれもたぶんこの二つのどれもを召し上げたいとは思わないだろう』と言った」とある。この所説の当否もここでは問題にしない。ただこのいわゆるポエトリーがここで何をさすかが問題である。不幸にして私はこのチャンバレーンの言葉がどこに発表されているかを知らないから今たしかにこの点を追究する道がない。しかしたぶんこれはまず和歌をさし、そうして事によると俳句も含まれているのではないかと思うのである。
このように、これ以上惨酷にはあり得ないと思うほど惨酷な目で日本の文化をながめたときでさえ、ともかくも目立って見える日本固有の詩形の中でも特に俳諧連句という独自なものの存在する事をこれらの毛唐人どもが知っていたかどうか、たとえそういう詩形の存在を概念的に知っていたとしてもほんとうにその内容を理解し正当に估価し得たであろうという事はほとんど不可能であると思われる。