沓掛より
本文約8,700字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
浅間火山の麓にある温泉場での滞在を綴る随筆。著者は周囲の植物を観察し、類縁関係や生命の神秘について考察する。また、盆踊りや池の生物との触れ合いを通じて、自然の理法と人間の社会活動との共通性や、人為的な干渉が引き起こす不自然な生活のあり方を論じる。
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一 草をのぞく
浅間火山のすそ野にある高原の一隅に、はなはだ謙遜なHという温泉場がある。ふとした機縁からそこでこの夏のうちの二週間を過ごした。
避暑という、だれもする年中行事をかつてしたことのなかった自分には、この二週日の間に接した高原の夏の自然界は実に珍しいものばかりであった。その中でもこの地方のやや高山がかった植物界は、南国の海べに近く生い立った自分にはみんな目新しいもののように思われるのであった。子供の時分に少しばかり植物の採集のまね事をして、葉のようなものを数十葉こしらえてみたりしたことはあったが、その後は特別に山野の植物界に立ち入った観察の目を向けるような機会もなくて年を経て来た。最近にある友人の趣味に少しかぶれて植物界への注意が復活しかけたのと、もう一つには自分の目下の研究の領域が偶然に植物生理学の領域と接触し始めたために、この好機会を利用して少しばかりこの方面の観察をしようと思ったので、まず第一の参考として牧野氏著「植物図鑑」を携帯して行って、少しずつ、草花の名前でも覚えようと企てた。
毎朝五時には目がさめる。子供や女中などはまだ寝ている間に、宿の後ろの丘の細道や、付近の渓流のほとりを歩いて何かしら二三種の草の花を抜いて来る。そうして露台のデッキチェアーに仰向けになって植物図鑑をゆるゆる点検しながら今採って来た品種のアイデンチフィケーションに取りかかる。やっと一つぐらい見つかるころには、朝食の用意ができた、と窓の内から声がかかるのである。
図鑑を見ただけで、なんらの疑点もなく明確にこれだと決定できる場合は存外少ない。ほとんど同じではあるが、どうも少しちがうようだ、という場合がはなはだ多い。書物の記載も、見取り図も至極簡単であるからやむを得ない。