新たなプロレタリア文学
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あらすじ(AIが作成しました)
プロレタリア文学における「アレゴリー」と「諷刺」の有用性を論じる評論。著者は、教訓的で静的なアレゴリーよりも、対象を鋭く暴露し動的な批判を行う諷刺こそが、階級闘争の武器として有効であると説く。ソヴェト文学やチェホフ、グロッスらの事例を挙げつつ、プロレタリアートが真に求めるのは、建設的な見通しと闘争への意欲を喚起する「諷刺文学」であることを提示し、その作家が備えるべき大衆と職場への理解の重要性を主張する。
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一
さきごろ中野重治が二つの短いアレゴリーを『改造』へ書いた。
自分はよんでいないけれども、彼は先に「根」という、やっぱりアレゴリーの成功した作品を書いたそうだ。
というと、つまり、『改造』に発表された方のはアンマリ成功していないということになる。作者の主観的な、古風な言葉でいえばある述懐というようなものは理解できる。が、作品は註つきでよませる物ではないから、あの二つは、いおうとすることを、はっきりした形で読者の心へ打ちこまないという点で失敗だった。特に「菊の花」の方は、主題のつかみかたがプロレタリア的な立場で見れば敗北主義くさいという、理論上の欠点ももっていた。
だが、あれをよんで、自分は興味をもって二つのことを感じた。一つは、中野君の作品を批評する場合、みんなの合言葉みたいになってつかわれる「詩人」という言葉の内容についてだ。他の一つは、プロレタリア・アレゴリーというものは、難しいもんだな、アレゴリーと諷刺とは、プロレタリア文学の形式として、どっちが広汎な、階級的役立ちに利用され得るだろうか、ということである。
アレゴリー、譬話というとわれわれは、まずエソープを思いだす。桃太郎、カチカチ山、兎と亀その他いわゆるおとぎ話は、たくさんアレゴリーの形式で書かれている。
ロシアにもクルイロフというがっちりした爺さんがいて、エソープの焼直しものをうんと書いた。今でもレーニングラードの冬宮裏の公園へ行くと、濃い菩提樹のしげみのかげに、クルイロフの銅像が立っている。