プロレタリア文学における国際的主題について
本文約7,100字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
藤森成吉の小説「転換時代」を批評し、プロレタリア文学における国際的主題のあり方を論じる。搾取されるプロレタリアートや農民の階級的闘争を、世界規模の政治的展望から把握する必要性を説く。一方で、ブルジョア文学が異国趣味を民族主義や帝国主義の武器として利用することを批判する。プロレタリア文学が民族性を階級闘争の個別的条件として扱い、唯物弁証法的な手法で作品を深化させるべきであることを、今後の発展的な課題として掲げる。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
『改造』十月号に藤森成吉が「転換時代」という小説を書いている。
自分は非常な興味をもってよみ始め、よみ終ってから何度も雑誌の頁をパラパラめくって考えこんだ。――感服したのではない。不服だった。大いに不服なのだが、この「転換時代」は非成功的作品にもかかわらず種々の発展的な問題を含んでいる。その問題の積極性が自分の注意を捕えた。
プロレタリア文学において、国際的主題はどう扱われるべきか。これが先ずその主な課題の一つなのだ。
本質からいって、正当なプロレタリア文学は基礎的な要素として根にひろい国際性をもつものだ。何等かの形でプロレタリア・農民の階級的闘争を直接・間接の主題としないプロレタリア文学というものはない。ところがプロレタリア・農民は日本にだけいるものだろうか? そうではない。ソヴェト同盟だけにかたまったか? そうでないのは知れている。搾取者のいるところ、必ず被搾取者としてのプロレタリア・農民が南アフリカの隅にまでも存在する。
各々の手に握る鋤の形が違うように、機械が違うように、各国の闘争の細部にわたる具体性はある点違っているだろう。が、階級として搾取者に対した時、プロレタリア・農民にとっては黒坊も白坊もない。世界のプロレタリアート・農民として、ただ一本の国境を地球の上に持つだけだ。世界のブルジョア・地主と自分たちとの境に。
解放運動のそういう国際情勢につれてプロレタリア文学は発展して来た。だから、よしんば個々の作品が、直接には亀戸の小さい紡績工場で闘争する女工だけを描いているとする、または九州の炭坑罷業を描いているとしても、その主題がはっきり資本主義第三期の世界経済恐慌との内国的関係において、プロレタリア・農民の政治的攻勢の展望のもとに把握、表現されていれば、基本的な解釈においては十分国際的な作品といえる。