忘れられぬ印象
本文約610字 ・ 読了時間 約2分
あらすじ(AIが作成しました)
伊香保への旅の記憶を綴る。高等学校時代、友人との登山の帰りに一晩泊まった際に居合わせた紳士との交流を回想する。朝から六度も風呂に入り疲労困憊した経験や、帰りの汽車賃が足りずに同宿の紳士から金を借りた出来事を描く。また、湯の中で聞いた一人乗りの自動車を作りたいというその紳士の夢に触れ、かつての不思議な縁と思索を巡る。
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伊香保の事を書けと云ふ命令である。が、遺憾ながら伊香保へは、高等学校時代に友だちと二人で、赤城山と妙義山へ登つた序に、ちよいと一晩泊つた事があるだけなんだから、麗々しく書いて御眼にかける程の事は何もない。第一どんな町で、どんな湯があつたか、それさへもう忘れてしまつた。唯、朧げに覚えてゐるのは、山に蔓る若葉の中を電車でむやみに上つて行つた事だけである。それから何とか云ふ宿屋へとまつたら、隣座敷に立派な紳士が泊り合せてゐて、その人が又非常に湯が好きだつたものだから、あくる日は朝から六度も一しよに風呂へ行つた。さうしたら腹の底からへとへとにくたびれて、廊下を歩くのさへ大儀になつた。けれどもくたびれた儘で、安閑と宿屋へ尻を据ゑてもゐられないから、その日の暮方その紳士と三人で、高崎の停車場まで下つて来たが、さて停車場へ来てみると、我々の財布には上野までの汽車賃さへ残つてゐない。そこで甚恐縮しながら、その紳士に事情を話して、確か一円二十銭ばかり借用した。以上の如く伊香保と云つても、溪山の風光は更に覚えてゐないが、この紳士の記憶だけは温泉の話が出る度に必ず心に浮んで来る。何でも湯の中で話した所によると、この人は一人乗りの小さな自働車を製造したいとか云ふ事だつた。今日の新聞で見ると、乗合自働車はもう出来たさうであるが、一人乗りの小さな自働車が出来たと云ふ噂はどこにもない。今ごろあの紳士はどうしてゐるかしら。
(大正八年八月)
完