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TORENDIA

魔のひととき

本文約12,900字 ・ 読了時間 約26分

あらすじ(AIが作成しました)

広島の惨劇を経て寒村を彷徨い、上京後も狭い下宿で孤独な療養生活を送る主人公は、慢性的な発作と飢餓に苦しんでいる。隣家の騒音や家主の妻からの冷遇に追いつめられ、精神的な隔離状態に置かれるなか、彼は亡き妻や早世した姉との追憶をよすがとする。過酷な現実と対比される透明で幸福な世界への憧憬を抱きつつ、心身ともに衰弱した日々を過ごす男の不安と、微かな希望を求める揺れ動く内面を描く物語である。

原民喜

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ここでは夜明けが僕の瞼の上に直接落ちてくる。と、僕の咽喉のなかで睡つてゐる咳は、僕より早く目をさます。咳は、板敷の固い寝床にくつついてゐる僕の肩や胸を揉みくちやにする。どんなに制しようとしても、発作が終るまでは駄目なのだ。僕は噎びながら、涙は頬にあふれる。だらだらと涙を流しながら、隣家の庭に咲いてゐる紫陽花の花がぽつと朧に浮んでくる。僕は泣いてゐるのだらうか、薄暗い庭に咲き残つてゐる紫陽花は泣かないのだらうか。死んだお前も、僕も、それから、このむごたらしい地上には、まだまだ沢山、こんな悲しい時刻を知つてゐる人がゐるはずだ。……

発作が終ると、僕は寝たまま手を伸べて枕頭の回転窓の軽いガラス窓を押す。すると、五インチほどの隙間から夜明けの冷んやりした空気が、この小さなガラス箱(部屋の中)に忍び込んでくる。その少し硬いが肌理のこまかい空気は僕の顔の上に滑り込んでくる。僕の鼻腔から僕の肺臓に吸はれてゆく。発作の終つた僕は、何ものかに甘えながら、もう一度睡つてゆかうとする。(空気つて、いいものだなあ。さうだよ、もう一度ゆつくりおやすみ。こんな透明な夜明けがあるかぎり……)僕の吸つてゐる空気はだんだん柔かくなつて、僕は羽根のやうに軽くなつてゆく。小さな窓から流れてくるこの空気は無限につづいてゐる。死んだお前も、僕も、それから一切が今むかふ側にあるやうだ、僕は……。僕は……。僕は安心して睡つてゆけるかもしれない。僕は医やされて元気になれるかもしれない。安心してゐよう。あんな優しい無限の透明が向側にあるかぎり……。僕は……。

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