本文へ移動
TORENDIA

脱帽

本文約1,500字 ・ 読了時間 約3分

あらすじ(AIが作成しました)

維也納のシユテフアン寺で帽子を落とされた留学生が、湧き上がる憤怒と自己の感情の移ろい、街で出会う人々との記憶を回想する随筆。さらに、異なる慣習を持つ猶太殿堂での経験を通じ、自己の行為に対する戸惑いや他者との関わりを綴る。異国の地で繰り返される「脱帽」をめぐる出来事から、心身の揺らぎや当時の社会状況が垣間見える。著者が体験した一連の心象風景を記した一編。

斎藤茂吉

速度
🎧 脱帽 / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 2

一

もうそろそろ体に汗のにじみ出るころであつたから、五月を過ぎてゐたとおもふ。途中で買つた医学の古書をば重々と両脇にかかへて、維也納のシユテフアン寺のなかに入つて行つた。それは疲れた体を休め、汗をも収めるつもりであつたのだが、両脇に書物の包をかかへてゐるために、向うの祷卓のところまで行つて、それから帽子を脱がうとおもひ、寺の中のうすぐらい陰気な石の床上を歩いて行つた。いまだ卓までは十数歩もあらうかとおもはれたころに、ひとりの男がつかつかと来て、『帽子をおとりなさい』といふ刹那に僕の帽子をば床上におとした。

そのとき僕はどう思慮したか、殆ど思慮のいとまもなく小走に走って行つて、重い書物をば卓のうへに置いた。

それからむらむらと憤怒の心が起つて溜まらぬので、彼の男を二たび見つけて、何かの形で突かかつてやらねばならぬといふ気がした。

然るに僕はさうしなかつた。陰気な寺の中の薄明が怒の行動に抑制を加へたと見えて、しばらく額に手を当ててゐたが、僕は静かに行つて床上におとされた自分の帽子を取つて来た。それからそこの卓に小一時間も休んでゐた。心に湧いてくる事は、今してゐる教室の為事の内容などで、帽子をおとした彼の男に対する残念な心などは不思議にうすらいでゐた。

小一時間もそこに休んで、二たび書物を両脇にかかへて寺を出た。その時帽子のつばのところを口でくはへて来た。二度咎められては困ると思つたのである。そんなことがあつた。

二

シユテフアン寺の出口のところに立ってゐる老いさらぼひた媼の乞丐に書物の包を持つてゐてもらつた。それから帽子を二たび冠り、老媼の乞丐に札一枚呉れてまた書物の包を両脇にかかへて寺を出た。

薄ぐらい寺の中から出て来ると、維也納の澄んだ空から差す日光はまばゆいほどである。鋪道をしばらく歩いてくるうちに、もう体に汗のにじみ出るのをおぼえる。

斎藤茂吉の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本