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TORENDIA

文学に於ける虚構

本文約4,600字 ・ 読了時間 約10分

あらすじ(AIが作成しました)

日本の古典や近代文学に不可欠な「虚構」について論じる。芸術が嘘を伴うという伝統的な認識を背景に、文学において虚構が果たす役割を考察する。特に芭蕉の作品と随行記との比較を通じ、事実に変更を加えて完全な生活の姿を求める技術としての側面を指摘する。虚構は優れた文学を構成するための表現技術の一手段であり、事実と虚構の境界を超えて読者に真実を感じさせることの重要性を提示する。

折口信夫

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🎧 文学に於ける虚構 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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このごろ、短歌の上で虚構の問題が大分取り扱はれて來た。文學に虚構といふことは、昔から認められてゐた。日本文學では、それを繪空事・歌虚言などゝ言つて、文學には嘘の伴ふものだといふことを、はつきり知つてゐた。寧、藝術は嘘で成り立つてゐる。其肝腎の部分は嘘だと言つてゐる。だから昔の人は藝術には信頼せず、作家にしても、戲作などゝ自分自身を輕蔑してゐた。今言はれてゐる虚構といふことも、此態度の延長に過ぎない。

しかし、廣い意味で言へば、藝術家のする事に、虚構が一つも入らぬといふことはない。たゞ、まざ/\とした虚構が、人に感じられることがいけないのだ。そこで、文學には本來虚構があるのだから、まざ/\とした虚構も許すべきかどうかといふ問題がある。

日本の例で申します。この數年來志田義秀さんの研究で、芭蕉の作物に嘘のあることが大きくうつし出されて來た。それは、皆うす/\感じてゐたが、志田さんが例を擧げて言はれる處によると、我々の中に這入つてゐた芭蕉の、調和した姿が破れて行くやうになつた。いま、芭蕉の姿を解釋しながら、虚構が文學の上に存在し得る限界について説明してみたい。

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