高原
本文約3,100字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
沓掛での夏の休暇を中心に、高原の自然と日常を綴る随筆。著者は顕微鏡を用いて植物の微細な構造を観察し、日常の風景とは異なる生命の驚異やその造形美について考察する。また、上田の町で見かけた祇園祭の様子や、滞在先の宿で耳にする讃美歌や人々の笑い声、鳥の鳴き声といった身の回りの事象に触れ、それらの背後にあるかもしれない自然や生理的な法則、あるいは環境が人間に与える影響について思索を巡らせている。
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七月十七日朝上野発の「高原列車」で沓掛に行った。今年で三年目である。駅へ子供達が迎いに来ていた。プラットフォームに下り立ったときに何となく去年とはあたりの勝手が違うような気がしたがどこがどうちがったかということがすぐとは気が付かなかった。子供に注意されて気がついて見るとなるほどプラットフォームに屋根が新築されて去年から見るとよほど停車場らしくなっている。全く予期しないものは眼に写っても心には写らないのである。
一昨年初めて来たとき、軽井沢駅のあの何となく物々しい気分に引きかえてこの沓掛駅の野天吹曝しのプラットフォームの謙虚で安易な気持がひどく嬉しかったことを思い出した。
H温泉池畔の例年の家に落着いた。去年この家にいた家鴨十数羽が今年はたった雄一羽と雌三羽とだけに減っている。二、三日前までは現在の外にもう二、三羽居たのだがある日おとずれて来たある団体客の接待に連れ去られたそうである。生き残った家鴨どもはわれわれには実によく馴ついて、ベランダの階段の一番上まで上がって来てパン屑をねだる。そうして人を頼る気持は犬や猫と同じであるような気がするが、しかしどうしても体躯には触らせまいとして手を出すと逃げる。それだけは「教育」で抜け切れない「野性」の名残であろう。尤も、よく馴れたわれわれの手を遁げる遁げ方と時々屋前を通る職人や旅客などを逃避する逃げ方とではまるでにげ方が違う。前の場合だとちょっと手の届かぬ処へにげるだけだのに、後の場合だと狼狽の表情を明示していきなり池の中へころがり込むようである。とにかくこんなになつかれては可愛くてとても喰う気にはなれない。