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TORENDIA

演出

本文約8,000字 ・ 読了時間 約17分

あらすじ(AIが作成しました)

能の芸術価値は演出にあると説く本書は、現代の能界において演出を統率する舞台監督者の不在が、能の混沌状態を招いている現状を論じる。かつて一座の棟梁たるシテが演出の中核を担っていた制度は崩壊し、役者同士の真剣な競演も失われた。著者は、能を根本から支える序破急の原則や、芸術的冒険の記録である小書という様式を詳述し、型を固守するだけでなく、役者の創造性を発揮することで、能が芸術として新たに生きる努力を続けるべきであると提言する。

野上豊一郎

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能の芸術価値は、ひとへにそれが舞台芸術としての存在の上に係つてゐるものであるから、演出が殆んど能の全価値であるといつてもよい。

それほど重大な演出の問題が、従来能の研究者の間に於いて等閑視されて来たのは、能の研究といへば多くは文学的に能の台本(謡曲)の訓詁註釈に没頭するとか、原典批判を試みるとか、或ひは、歴史的に能の発生・発展に関する史実の探究に専心するとか、さういつた方面にのみ注意が向けられてゐた結果である。それ等も、もとより必要な検討事項ではあるが、そのために能の研究の最も根本的な基本となるべき芸術学的・美学的研究が取り残されたことは遺憾である。

能の芸術学的・美学的研究の対象となるものはどうしても能の演出そのものでなければならぬ。それを知るには、一流一派に偏することなく、能の実演を(なるべく良い技術を数多く)根気よく見なければならぬ。それには相当の年月を要することであり、しかも常に新鮮な目を以て批判的に観察してかからねばならぬ。毎月、或ひは毎週、能を見る人の数は少くないけれども、彼等の大部分はウタヒを稽古してゐる好事家で、しかも一流一派の盲目的信仰者であり、自分のウタヒの技術を増進する目的で(見るためでなく)単に聞くために能舞台へ出かけるやうな片寄つた熱心家であるか、さうでなければ稽古仲間の義理附合に席を取つて社交的に集まるといつたやうな有閑人である。いづれにしても、能舞台へは行くが能芸術とはおよそ関係のないやうな人間が大多数であり、能の研究はおろか、能の鑑賞をさへ敢へてしないやうな人たちである。さういつた人たちの会費を基礎にした会員組織乃至社団法人組織の上で舞つて見せなければならぬ能役者も気の毒ではあるが、それに較べると、芝居の方が(芝居その物は営業本位でかなり愚劣なものばかり毎月並べ立ててはゐるけれども)、見物人の大部分は見て娯しむために出かけるので、鑑賞といふ点からいへば、まだしも能よりは確かにより多く熱心に鑑賞されてゐるわけである。

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