『跫音』の序にかへて
本文約770字 ・ 読了時間 約2分
あらすじ(AIが作成しました)
ラジオ・ドラマは機械と人間の微妙な協力や闘争から劇的美を構成する困難な芸術である。内村直也の作品は、耳を感覚の軸として幻覚の世界を描き出す優れた技術と、素直な人間性に基づく心理風景の描写を両立させる。リアリズムから出発した作者が想像力を駆使して新たな表現を模索する姿を見つめ、著者はラジオ文明の先駆者としての成長を予見しながら、その足跡が聴衆の心に深く響き渡ることを希求する序文である。
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ラジオ・ドラマといふものはなかなかむつかしいものである。私も二三それを試みて、ついに投げ出してしまつた。人間と機械との微妙な協力あるひは闘争が、聴覚を通して劇的美の構成に役立つことをまづ発見したものだけが、真にすぐれたラジオ・ドラマの作者となり得るやうに思ふ。
われわれはなるほど、日常生活に於て、五官のそれぞれの働きについて一応の区別とその限界を認めてはゐるが、ラジオといふ機械設備の前では、耳だけがわれわれの感覚の軸となる。耳によつて捉へられた音の実体が、いはば、仮感とも名づけ得べき幻覚の世界を時空の限りなきひろがりを含めて描き出す。
内村君の作品はこの原理を巧妙に、かつ、正確に生かしたといふ点で、おそらく類の少いものかもしれないが、さういふ技術的な一面だけで、物語の生命がつねに支えられるものではない。そのいくつかの作品に見られる感動の美しさは、作者の素直な人間性と堅実な心理風景のデッサンにもとづくものと思はれる。ラジオ・ドラマが文学の一ジャンルたることを主張し得る水準がここにあるのである。
劇作家内村直也は、正統的なリアリストとして出発したが、ラジオ・ドラマの領域に於て、早くもそのファンテジイを駆使する秘密を探りはじめた。想像の遊戯は、古来、精神と形式との固定化を脱する芸術家の宝刀の如きものである。
私はこの作家の成長がなんとなくラジオ文明の発達とその歩みをともにし、少くともわが国に於ける最初のテレヴィジョン・ドラマの作者たる運命を背負つてゐるやうな気がする。この予言は当つても当らなくてもよい。ただ、私の希ふところは、かの帰還兵士たる息子の「跫音」が、一人の母の耳に万人の胸をうつ愛の響きを伝へたごとく、作者自身の「跫音」もまた、大いに天下の耳を傾けさせ、ますます高くなつかしく、冴えわたることのみである。
千九百四十九年春
完