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TORENDIA

未解決の問題

本文約5,000字 ・ 読了時間 約11分

あらすじ(AIが作成しました)

新劇の総決算を試みる論考。新劇が純粋な芸術運動と文化運動の狭間で迷走し、西欧劇の模倣に留まっていた現状を批判的に検証する。演劇の本質をリアリズムに求めつつ、現代を呼吸する俳優の養成や、戯曲と民衆の生活との乖離という課題を提示。さらに演劇における知的な操作の不足や、「対話の精神」の欠如を指摘し、今後の新劇が目指すべき地平を論じる。

岸田國士

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🎧 未解決の問題 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

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一

編集者は私に「新劇の総決算」といふ課題を与へた。私に特にこれをせよと命ずる正当な理由のあるなしは別として、私は甘んじて、それに応じてみる気になつた。それは、自分自身の総決算を事の序にしてもよいと覚悟をきめたからである。

二

新劇はこれまでなにをして来たか? この問に答へるためには、先づ、新劇とはなんであつたかを明らかにしなければならぬと思ふが、その範囲をここで限定してみてもはじまらぬ。ただ、どうしても必要なことは、その性格に二つの面が重なり合つてゐることを注意することである。即ち、純粋な芸術運動としての面と、芸術を通じての広い文化運動としての面とである。いづれも、ある種の革新を目指してはゐるが、そして、それが同時並行的なすがたを示してゐるものもあるが、大体に於て、この二つの面が当事者によつても、また、それを享け容れる側に於ても、無意識に取扱はれ、この二つが一つのものであるかの如き錯覚に陥つてゐたこと、従つて、運動の方向が絶えずヂグザグの道をとり、時には、互に伸びるべきものを圧殺する結果を生じたことを認めないわけにいかぬ。

坪内逍遥から小山内薫までの新劇の指導者によつて、新劇の性格がほぼ決定されたわけであるが、それは、日本在来の演劇になにものかを附け加へ、更に、時代の要求に一歩近づくことから始められたのは当然として、そこから生れたものは、観念として「歌舞伎でも新派でもないもの」でありながら、実質的には、西欧劇の模倣を出発点とする精神と形式との跛行状態であり、芸術的にも文化的にも、民衆の生活に結びつかぬ根無草のやうなものであつた。

その頃、ある老巧批評家が、多少無責任な放言の体を装つてではあるが、「新劇」を評して「新あつて劇なし」の警句を吐いた事実を思ひ出す。

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