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TORENDIA

頃日雑記

本文約3,200字 ・ 読了時間 約7分

あらすじ(AIが作成しました)

療養所での単調で不可解な日常を送る著者が、人間として生きることの本質や文学への姿勢を綴る。ハンセン病という境遇を「人間を書く上での一つの場合」と捉え、屈辱感の除去こそが重要であると説く。また、ギュスターヴ・フロオベルの書簡や生涯に触れながら、創作の苦悩や真実を求める精神を考察する。幸福や不幸といった既存の価値観を超越し、あきらめと戦い続ける孤独な思索を深めていく。

北條民雄

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🎧 頃日雑記 / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

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朝、起き上るたびに私は一種不可解な気持をもつてあたりを見廻さずにはゐられない。夜が明けるたびに起き上つてはごそごそと動き始める日々といふものを、もう二十年あまりも続けてゐるのであるが、しかしこの単調さにも腐敗しない人間の心理といふものはなんといふ不思議さであらう。況や起き上るたびにもう動き出さうとむづむづしてゐる肉体を感ずる時、いつたい人間を何と解いたら良いのであらうか。睡眠という空白の時間をこの場合に持ち出すのは人間に対する侮辱である。切実にベルグソンの哲学を読みたいと思ふのもかういふ時である。

フロオベルの全集が届いて以来、私は毎日驚いてばかりゐる。峻厳胸を刺す驚きである

私は癩文学などいふものがあらうとは思はれぬが、しかし、よし癩文学といふものがあるものとしても、決してそのやうなものを書きたいとは思はない。今までにも書いたことのないのは勿論、また今後も決して書くまいと思つてゐる。我々の書くものを癩文学と呼ばうが、療養所文学と呼ばうが、それは人々の勝手だ。私はただ人間を書きたいと思つてゐるのだ。癩など、単に、人間を書く上に於ける一つの「場合」に過ぎぬ。

癩者を救ふ第一の道は、癩者のもつ屈辱感を除去するにある。この点を些かも考慮せぬ癩運動といふものは、よし現在までは意義あるものとするも、以後はあまりに意味がないであらう。と、まあ、私も一応は言つてみたが、諸君よ、癩運動が癩者のためのみのものであるなどとは、夢あまたれる勿れ。

作家は批評、文学論など、一切発表してはならぬ。何故なら、自分の発表した議論によつて自分を束縛し、或は意見を述べることによつて自己弁護するからである。私は一切意見を公表せぬことに定めた。凡ては作品にある。

人々はどうしてああも虚偽が好き好きなのか。私には誠に不可解である。

しかし我々はどうしてかうも真実を求めるのであらうか。これもまた不可解である。

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