通俗小説
本文約6,600字 ・ 読了時間 約14分
あらすじ(AIが作成しました)
本格的な小説執筆に苦心する著者が、文学における通俗性と真摯な芸術表現のあり方を論じる。人生の機微を深く洞察する心境と本格的な描写の両立こそが重要であると説き、新聞小説に代表される大衆的な手法や時代思潮に安易に流される姿勢に批判を向ける。互いに批評し合える作家同士の交流の重要性を訴え、不完全であっても自身の力を尽くした表現こそが真の芸術であると主張し、外形的な技術や流行を超えた真実の追求を提唱する。
💰 この本を応援する(投げ銭)
△
私が鈍才であるためかも知れないが、何うも本格的な小説が書けない。一時は随分そのために苦労もし、骨も折つて見たのであるが――人一倍いろいろなことをやつて見たいと思つてゐるが、その出来栄の如何といふことよりも、何うもそれでは自分で満足が出来ない。こんなものをいくら書いたつてしやうがないといふやうに思はれて、あとでそれを振返つて見る気になれない。その癖、私のかねての願望はさうではなかつたのである。苟しくも小説家として筆を持つて立つてゐる以上、何んなことでも書けるやうにならなければ本当ではない。いかなる人生でも展開して来やう。いかなる人間でも如実に描き出して見せやう。かう思つてやつて来たのである。ところが、さういふことは非常にむづかしいことで、口でこそ言へるが、いざとなつては、容易に実行出来るものでないといふことが次第に私にわかつて来た。自己と同じ程度に他を見るといふことは、それは容易に出来ることではなかつた。或は全く不可能であると言つても好いかも知れなかつた。従つて本格小説が多くは通俗小説に堕して了ふのも止むを得ないことであると言はなければならない。
本格的であつてそして心境的の手堅さを持つたやうなもの、さういふものが一番好いのであるのはわかり切つてゐるが、何うもさういふものは、外国でも沢山はないらしい。私達も以前は外国の小説でさへあればすぐれてゐると思つてすぐ傾倒して了つたものであるけれど、今日考へて見ると、随分低級な通俗小説をも立派な作だと思つてゐたことがないとは言へないのである。低級になればなるほど、通俗になればなるほど、いろいろな思想や考へや理窟などを盛つたものが多くなつてゐるので、却つてその方を時代思潮に触れてゐるなどと思つたこともあるのである。人生をむきだしに浅く説明したやうなものを却つてすぐれた作だと思つたのである。
作中に出て来る人物を心境的に詳しくあらはすといふこと――その骨折は大したものだと思はれるが、しかもその難関は誰でも一度は通つて行くであらうと思はれる。そして本格的で同時に心境的であることの難かしいことを痛感するであらうと思はれる。
△