古川ロッパ昭和日記
本文約108,700字 ・ 読了時間 約218分
あらすじ(AIが作成しました)
昭和十年、浅草の役者から東宝へ転じた古川緑波は、一座を率いて舞台公演を開始する。本作は、その後の昭和十一年一月までを中心に、日劇や京都、名古屋での興行の様子を綴る。連日の満員御礼に喜ぶ一方で、舞台装置の故障や座員の急病、脚本執筆の苦悩、宿泊先での麻雀など、人気役者としての多忙な日常とショウマン的苦労を克明に描く。公演地を転々としながら、次なる飛躍を目指す一人の座長としての舞台裏を記録する。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
前年記
昭和十年は、浅草から丸の内へといふ、僕にとっての一大転機の年として記念すべき年であった。
昭和七年一月宝塚中劇場のスタート以来、七年一杯をわれらがレヴィウ「悲しきジンタ」の大阪松竹座、浅草大勝館公演と、帝都座の「海のナンセンス」等、小やかなアトラクション俳優として過し、その暮に、新橋演舞場のカーニヴァル座結成、昭和八年正月の公園劇場出演、二月の大阪・京都吉本興行の寄席廻りと、名古屋松竹座出演を経て、四月浅草常盤座に「笑の王国」旗挙げ、之が意外の当りで、つひに昭和八年四月から、昭和十年六月まで、浅草の役者となり、漸く力を養ひ、昭和十年七月、東宝へ一座を統ゐて転じ、初めて名目共に古川緑波一座としての公演を開始し、横宝、有楽座、日劇、宝塚中劇場に出演し、中でも日劇の「歌ふ弥次喜多」の大当りに、漸く僕の名が丸の内を中心に、東京的になり、全国的になりつゝある、といふ現在である。
短い間に、役者修業もし、ショウマン的苦労もした。
すべては、これから。準備は出来た! これから出帆である。
役者となりて五年目の春、いざ、はり切って進まんかな。
[#改ページ]
昭和十一年一月
一月一日(水曜) 京宝劇場初日。
宿で、屠蘇・雑煮。屠蘇は甘味なく、雑煮は白味噌の汁なり。夕刻、思ひついて相鴨のすきやき、青い葱と水菜がうまく、たっぷり食って、宿を出ると、つい二三丁のところ、京宝劇場、今日初日で夕五時半から一回。入りは満員。一の「学校友達」では、客が乗ってない感じで心配したが「ガラマサ」の一景で安心した、笑ひすぎる程よく笑ふので、セリフの次が出ない位だ。五景迄無事だったが、三味線ひきの爺がひどくて、肝腎の義太夫のクライマックスが、てんでいけない。代へて貰はないと芝居が出来ないと言っておく。「歌ふ弥次喜多」は、大受け、先づ安心した。徳山と岸井が、今夕四時に着いたが、二人とも風邪をひいてゐる。初日ながら十時打出しの好成績。宿へ帰り、かやく飯を食ふ。吸入かけてねる。