我が一九二二年
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あらすじ(AIが作成しました)
秋の情景や流寓の身の上、あるいは他者への複雑な心境を綴った詩集である。孤独な夕餉でさんまを食して流す涙や、秋衣の製作に託す人への思慕を描く。さらに、療養中の心境や人妻をめぐる夢の困惑、日常の些事からふと立ち上がる厭離の心まで、詩人が一九二二年という時期に抱いた私的な感懐や生活の断片を、多彩な詩情と古風な言葉を交えて収める。
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序
私達の友人は既に、彼の本性にかなはない総ての物を脱ぎ棄て、すべての物を斥けた。そして彼自らの手で紡ぎ、織り、裁ち、縫ひ上げたところの、彼の肉体以上にさへ彼らしい軽羅をのみ纏ふて今、彼一人の爽かな径を行つてゐる。
他の何人に対してよりも、自分自身に対して最善の批評家であるところの彼は、つねにただ、彼の子供として恥しくない子供だけを生み、より恥しくない子供だけを育て上げてゐる。彼のと異つた芸術を要求することは固より許されよう。彼のにまさつて完全なる(或は完全に近い)芸術といふものは、たやすく現代の世界に見出されないであらう。
彼の芸術は、詩に於て最も彼らしきところを、最も完全なるところを示してゐる。
今の詩壇に対する彼の詩は、余りにも渾然たるが故に古典的時代錯誤であり、余りにも溌溂たるが故に未来派的時代錯誤であることを免れない。
嗚呼、この心憎き、羨望すべき時代錯誤よ。時代錯誤の麟鳳よ。永久に詩人的なるものよ。
『永久に詩人的なるもの』私達の友人よ、ねがはくは彼によりて、彼を取りまける総ての者が、詩の天上にまで引きあげられて行くことを。
一九二三年一月十四日 生田長江
月をわび身を佗びつたなきをわびてわぶとこたへんとすれど問ふ人もなし。
芭蕉翁尺牘より [#改段]
秋刀魚の歌
あはれ 秋風よ 情あらば伝へてよ ――男ありて 今日の夕餉に ひとり さんまを食ひて 思ひにふける と。
さんま、さんま そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。 そのならひをあやしみなつかしみて女は いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。 あはれ、人に捨てられんとする人妻と 妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、 愛うすき父を持ちし女の児は 小さき箸をあやつりなやみつつ 父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。
あはれ 秋風よ 汝こそは見つらめ 世のつねならぬかの団欒を。 いかに 秋風よ いとせめて 証せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。