鹿の印象
本文約3,500字 ・ 読了時間 約7分
あらすじ(AIが作成しました)
大正三年、著者は案内人や人夫を伴い南アルプスを縦走する。霧深い山中で、かつて平穏に暮らす鹿の群れと出会い、その生態を観察する。また、霧に迷い込んだ山中で遭遇した怪しげな痕跡の正体が、鹿の作った寝場所であったと知るなど、山歩きを通じて野生の鹿との交流や、当時の厳しい自然環境の中での野営体験を綴る随筆。二十五年後の現在、開発で山が変わり果てた今、かつての光景に思いを馳せる。
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大井川奥の田代から入って三伏峠まで、十数日に亙る南アルプスの縦走を企てたことがある。大正三年の夏で、その二年前に友の一人が初めてこの山行を試み、雨の為に散々に悩まされた話を聞いていた。それで是非とも其時の案内人夫を伴い度く思ったのであるが、生憎一人も都合がつかなかったので、別人を雇う外はなかった。谷筋には相当明るい猟師であっても、山の上は全く知らないのであるから、初登山も同様で甚だ頼りがない、唯二年前に兎も角も友の一行が通過しているということが一の心強さであった。
現今のように登山路が略ぼ完成し、至る所に指導標が建てられ、随所に小屋が設けられて、途中で迷う憂もなく、小屋から小屋へと辿って行きさえすれば、楽に目的が果されようという時代になっては、わざわざ人夫を雇って、天幕や食糧を担わせ、野宿の苦を忍んで、幾日かを山上に放浪した昔のような山旅をして見ようという物数寄な人もなかろうし、山もまたさぞ変ったことであろうと、手近な秩父あたりの有様と較べて想像しながら、昔懐しく思うのである。
此山旅で最も興深く感じたのは、山上に鹿の群と羚羊の多いことであった。冬の間は比較的麓の方に下っているのだそうであるが、晩春になると雪解の跡に萌え出づる瑞々しい芳草を趁うて、上へ上へとのぼり、夏は全く山上を棲処としている。若し偃松の途切れた間や、短矮な唐檜白檜のまばらに散生している窪地や斜面に、稍や広い草原が展開して、兎菊、信濃金梅、丸葉岳蕗、車百合などが黄に紅に乱れ咲き、其中に肌の稍白いこんもり茂った天狗樺(方言)の老木が横に伸びて、草原に涼しい緑の蔭をつくっているような処があれば、其処はきまって鹿の群が昼寝をする臥床となっていた。天外の楽園に甘睡を貪っていた一団が、近づく人の気配に夢を破られてドッと跳び出した瞬間、眼の前に巨弾が炸裂したかのように感じて、何事が起ったのかと吃驚する。見ると褐色の群が花を蹴散らして、驀地に谷の方へ駆け下りて行く。それで漸く鹿だなと安心する。