一
部屋へ入ると直ぐ、父の様子が毎もと違うのを信太郎は感じた。
「お呼びでございますか」「うむ、――」信右衛門は好物の莨を喫っていたが、信太郎の坐るのを待って静かに煙管を措いた。
「突然のことで驚くかも知れぬが、そのほう明日江戸を立って、故郷まで行って来て貰いたいのだ」
「――石見へでございますか」「石見の浜田だ」「何ぞ急な御用でも……」「一人――人を斬るのだ」
意外な言葉だった。訝るように見上げる信太郎の眼を、眤と見返しながら、信右衛門は静かに云った。
「父が永の暇を出されて浜田藩を退身したのは、十五年以前の夏のことであった。なぜ退身したかということは今日まで話さなかったし、出来るならいつ迄も話したくはない、――然し順序として簡単に云おう」「その仔細なら、あらまし存じて居ります」
信右衛門はちょっと意外な面持をした。
「どうして知っているのだ」「亡くなる二年ほどまえ、母上から聞かせて頂きました」「――そうか」
信右衛門は静かに膝を撫でて、
「では神尾采女のことを知って居るな」「はい、――」
安倍信右衛門は今から十五年まえ、石見国浜田藩に物頭格五百石で仕えていた。
当時、足軽の伜で小姓にあがり、そのお側去らずに仕えている神尾采女という者がいた。非常な才人で、主君松平大和守の寵愛を専らにしていたが、二十三歳で御用人に取立てられると急に勢を得て君寵をかさに政治面の事にまで容喙するようになった。――信右衛門は夙くから采女が奸曲の人物であると見ていたので、お側を遠ざけるよう再三にわたって直諫した、それが要するに永の暇になる因だったのである。
安倍の家は祖父の代から大和守に仕えていて、つまり「三代相恩」の主家ではあったが、信右衛門は遂に浜田を見切って浪人し、江戸へ出て数年を過すうち、今の主君堀田山城守に見出されて三百石を賜わり、江戸詰留守役として今日に至ったのである。
「それでは精しく話す要はあるまい」