TRENDIA CLASSIC

赤ひげ診療譚

山本周五郎

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梅雨にはいる少しまえ、保本登は自分から医員用の上衣を着るようになった。薄鼠色に染めた木綿の筒袖と、たっつけに似たその袴とは、よく糊がきいてごわごわしており、初めて着たときには、人にじろじろ見られるようでかなり気まりが悪かった。

新出去定と森半太夫は黙っていたし、彼が上衣を着はじめたということにさえ、気づかないふりをしていた。他の医員たちも口ではなにも云わなかったが、彼を見るたびに皮肉な眼つきをしたり、唇にうす笑いをうかべたりするのが認められた。――こういう中で一人だけ、彼のためによろこび、それを正直に口に出して云った者がいた。それは台所で働いている、お雪という娘であった。お雪は登が上衣を着ているのを見るなり、まあと手を打ち合わせ、顔じゅうでこぼれるように微笑した。

「ようやく上衣をお召しなさいましたのね、よかったこと」とお雪は云った、「これでやっとあたしの勝ちになりましたわ」

「おまえの勝ちだって」登は訝しそうに訊いた、「誰かと賭けてでもいたのか」

「ええ」お雪はちょっと狼狽しながら、巧みに微笑でそれをつくろった、「賭けたといえば賭けたんですけれど、あたし保本先生がそういうお気持になって下さるようにって、願っていたんですの」

「そういう気持とは、どういうことだ」

「この養生所におちついて下さるというお気持ですわ」お雪は勇敢に云った、「あたしなんかが云うのはおかしいでしょうけれど、ここにはいいお医者さまが必要ですし、本当に医者らしいお医者なら、ここでお仕事をなさる気にならない筈はありませんもの、そうでしょう」

登はそのとき気がついた。

――森半太夫の口まねだ。

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