赤ひげ診療譚
本文約26,200字 ・ 読了時間 約53分
あらすじ(AIが作成しました)
無名の見習医として小石川養生所で働く保本登は、最初は嫌っていた医員の上衣を自ら着るようになる。養生所を取り仕切る新出去定への反発を抱えつつも、登は貧しい患者である佐八の治療を通じて、医療のあり方や自身の生き方と向き合うことになる。佐八はかつて深い仲であった女性を自らの手で埋葬した過去を抱えており、罪滅ぼしのために人のために尽くしながら静かに死を待っていた。本作は、過酷な現実の中で誠実に生きようとする人々の姿を描く。
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一
梅雨にはいる少しまえ、保本登は自分から医員用の上衣を着るようになった。薄鼠色に染めた木綿の筒袖と、たっつけに似たその袴とは、よく糊がきいてごわごわしており、初めて着たときには、人にじろじろ見られるようでかなり気まりが悪かった。
新出去定と森半太夫は黙っていたし、彼が上衣を着はじめたということにさえ、気づかないふりをしていた。他の医員たちも口ではなにも云わなかったが、彼を見るたびに皮肉な眼つきをしたり、唇にうす笑いをうかべたりするのが認められた。――こういう中で一人だけ、彼のためによろこび、それを正直に口に出して云った者がいた。それは台所で働いている、お雪という娘であった。お雪は登が上衣を着ているのを見るなり、まあと手を打ち合わせ、顔じゅうでこぼれるように微笑した。
「ようやく上衣をお召しなさいましたのね、よかったこと」とお雪は云った、「これでやっとあたしの勝ちになりましたわ」
「おまえの勝ちだって」登は訝しそうに訊いた、「誰かと賭けてでもいたのか」
「ええ」お雪はちょっと狼狽しながら、巧みに微笑でそれをつくろった、「賭けたといえば賭けたんですけれど、あたし保本先生がそういうお気持になって下さるようにって、願っていたんですの」
「そういう気持とは、どういうことだ」
「この養生所におちついて下さるというお気持ですわ」お雪は勇敢に云った、「あたしなんかが云うのはおかしいでしょうけれど、ここにはいいお医者さまが必要ですし、本当に医者らしいお医者なら、ここでお仕事をなさる気にならない筈はありませんもの、そうでしょう」
登はそのとき気がついた。
――森半太夫の口まねだ。