一
その日は事が多かった。――午前十時ごろに北の病棟で老人が死に、それからまもなく、重傷を負った女人夫が担ぎこまれた。保本登は老人の死にも立会い、女人夫の傷の縫合にも、新出去定の助手を勤めたが、――それが彼の見習医としての初めての仕事になったのだ。
狂女の出来事のあとでも、登の態度は変らなかった。どうしても見習医になる気持はなかったし、まだその施療所から出るつもりで、父に手紙をやったりした。けれども、心の奥のほうでは変化が起こっていたらしい。彼は赤髯に屈服したのである。狂女おゆみの手から危うく救いだしてくれたこと、――それはまったく危うい瞬間のことであったし、人に知られたら弁解しようのない、けがらわしく恥ずかしいことであったが、――それを誰にも知れないように始末してくれた点で、彼は大きな負債を赤髯に負ったわけであった。おかしなはなしだが、そのとき登は一種の安らぎを感じた。赤髯に負債を負ったことで、赤髯と自分との垣が除かれ、眼に見えないところで親しくむすびついたようにさえ思えたのだ。
これらのことはあとでわかったので、そのときはまだ気がつかなかった。そんな狂女との恥ずかしい出来事にぶっつかったのも、自分を施療所などへ押込めた人たちの責任で、こっちの知ったことではない。要するにここから出してくれさえすればいいのだ、というふうに、心の中で居直っていた。――新出去定は相変らずにみえた。実際は登の心の底をみぬいて、辛抱づよく時機の来るのを待っていたのかもしれない。そう思い当るふしもあるが、表面は少しも変らず、登には話しかけることもなかった。
四月はじめのその朝、去定は彼を北の病棟へ呼びつけた。呼びに来たのは森半太夫だったが、登はすぐには立たなかった。
「もういちど云いますが北の一番です、すぐにいって下さい」
「命令ですか」
「新出さんが呼んでいるんです」と半太夫は冷たい調子で云った、「いやですか」
登はしぶしぶ立ちあがった。
「上衣を着たらいいでしょう」と半太夫ががまん強く云った、「着物がよごれますよ」
だが登はそのまま出ていった。