扇野
本文約33,500字 ・ 読了時間 約68分
あらすじ(AIが作成しました)
絵師の栄三郎は、家老の長男石川孝之介から自身の襖絵に肝心なものが足りないと指摘され、強い反発と屈辱を抱く。同時期、交際する遊女おつるが孝之介の執拗な横恋慕と脅迫により、自分を犠牲にして身を引こうとしていることを知る。栄三郎は苦悩の末、知人であるおけいの献身的な協力のもと、おつるを伴って江戸へ旅立つ決意をする。彼は己の芸術への葛藤と、運命に翻弄される愛する人との絆の間で、新たな道を選択する。
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一
「うんいいね、静かな趣きだ」
石川孝之介はそう云って、脇にいる角屋金右衛門に頷いた。
――なにを云やあがる。
栄三郎は心の中でせせら笑った。
孝之介は、藩の家老石川舎人の長男だという。年は栄三郎より五つ六つ若いだろう、二十六七歳と思えるが、家老職の子らしいおちつきと、すでに一種の威厳のようなものが備わってみえる。躯も顔もやや肥えてまるく、色が白く、だがその大きな(またたきをしない)眼には、意地の悪そうなするどい光りがあった。
「お上はたいそう冬の武蔵野をお好みあそばしますので」と角屋金右衛門が云った、「およそこういうものをと、私から古渓先生にお願い申したのでございます」
「閑寂な気分がよく出ている、悪くない」孝之介が云った、「この枯れた栗林がことにいい、いかにも武蔵野というふぜいだ、私も出府したとき江戸の近郊をだいぶ歩きまわったものだが、これは関口の大滝の上あたりを写したものではないか」
金右衛門が栄三郎を見た。
「失礼ですが、それは栗林ではなく、くぬぎ林です」と栄三郎が答えた、「それにこれは、写生ではなくて絵ですから、どこそこの景色だなどということはありません」
孝之介はこちらへ振返った、栄三郎は黙ってそれを見返した。
彼は石川孝之介が気にいらなかった。べつにはっきりした理由はない、自分が直参の侍の出だから、家老の子などというと反撥を感じるのかもしれないし、また、絵がまだ纒まっていないからと断わったのに、どうしても見ると云い張った権柄ずくに肚が立ったのかもしれない。いずれにしても、初めて顔を見たとたんに、こいついやなやつだと思った。
孝之介の唇が、ごくかすかに歪んだ。
「自信をもつというのはいいことだ」彼はこう云って、下絵のほうへ手を伸ばした、「しかし、これがもしこのまま襖絵になるのだとすると、肝心な、なにかが足りないように思うな」
「この絵にですか」
「そう、この下絵にね」
孝之介は下絵の一部へ手を向け、伸ばして揃えた指を反らせて、その一部へなにかを塗るようなしぐさをした。