おもかげ抄
本文約10,800字 ・ 読了時間 約22分
あらすじ(AIが作成しました)
遠州浜松の城下で浪人生活を送る鎌田孫次郎は、死別した妻への深い未練から、架空の妻と会話を交わす生活を続けている。近隣からは妻に甘い「甘田甘次郎」と噂されるが、その人品は土地で評判となる。孫次郎の剣術の腕を見込んだ大番頭・沖田源左衛門は、娘の小房を彼に託すことを決意する。孫次郎は過去を弔うための旅へ出るが、そこで小房と再会し、新たな人生と亡き妻の面影が重なる未来を見出し、二人は絆を深めながら歩み始める。
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一
「おい見ろ見ろ」
「――なんだ」
「あすこへ来る浪人を知ってるか」
「うちの店へ越して来た鎌田孫次郎てえ人だろう」
「本名はそうかも知れぬがの」
魚売り金八はにやりと笑って、「あれあおめえたいした飴ん棒だぜ」
遠州浜松の城下外れ、「猪之松」という問屋場の店先を一人の浪人が通りかかった。年の頃二十八九であろう、上背のある立派な体つきで、色の浅黒い眼の涼しい、先ずこの辺には珍しい美男だ、――街道裏にある猪之松の家作へ移って来てから十日余り、中国辺の浪人で名は鎌田孫次郎という。
「飴ん棒たあなんの事だ」
「まあ聞きねえ」
金八は煙管をはたいて、「七日ばかりめえのこった、買出しに出ようとして通りかかると、あの先生、――裏へ出て洗濯をしているじゃあねえか。お早うございますと云っちまってから、おらあ悪いことをした、見ねえ振りをして行くんだったと思っていると、相手ぁ平気なもんだ、やあ是は早々と御精が出ますな……とにやにや笑ってる。そこでおいらが、――奥さまのお加減でもお悪うございますかと訊いたんだ。するとその返辞がふるってらあ、いや別に何処が悪いと申すほどでもござらぬが、ちと我儘者でな、まあ朝寝がしたいのでござろうよ、兎角どうも女は養い難しでござる、あははははは――てえ始末だ」
「ふうん、たいした代物だな」
猪之松の店の者で吉公という口の軽いのが、待兼ねたように乗出して、
「そう云えばあの浪人、米の一升買いから八百屋の買出しまで自分でやらかすぜ」
「本当かいそれあ――」
「一度や二度じゃねえ、おいら現に見ているんだ、あの通り五段目の定九郎てえ男振で、それこそ芋を少々……なんて図は珍なもんだったぜ」
「だからよ」
金八が我意を得たりという顔で、
「本名は鎌田孫次郎かも知れねえが、彼あ甘田甘次郎が本当だと云うんだ」
「女房に甘次郎か」
わっとみんなが笑いだした時、吉公の横鬢がぴしゃりと鳴った。
「あいて」
恟りして振返ると、
「この馬鹿野郎」
ともうひとつ。いつか背後へこの家の隠居六兵衛が来ていた。