暗がりの乙松
本文約11,800字 ・ 読了時間 約24分
あらすじ(AIが作成しました)
伊豆の湯治宿へ潜り込んだ小盗人の野火の三次が、名高い大盗人「暗がりの乙松」と名乗る男に出会う。盗みを企てる三次に、男は酒を酌み交わして語りかけ、改心を促す。ある日、借金苦に喘ぐ一家の惨状を見た三次は、盗みを断念して男の金を一家の窓へ投げ込む。翌日、自首を決意した三次に対し、男は自身の素性が実は酒問屋の隠居であることを明かし、別の道を歩むよう支援を申し出る。人の更生を密かに助ける男の姿と、若者の再生を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
居合腰になってすーと障子を明ける、そのまましばらく屋内のようすを聞きすましてから、そっと廊下へ忍び出た。とたんに、
きりぎりす
袖も袂も濡れ縁に
隣の部屋から、さびた良い声で唄いだすのが聞えてきた。
「――またか!」
野火の三次は舌打をして居竦まった。
ここは伊豆の修善寺、佐原屋という湯治宿の二階だ。まだ駈け出しの小盗人野火の三次は、江戸の仕事に足がついて、どうやら体が危くなってきたから、二三年旅をかけて腕を磨こうと、草鞋をはいて入って来たのがこの湯治場であった。――この宿へ着いて十日め、早くもみかけためどが二つ。その一つは三日まえにこの佐原屋の二階の離室へ泊りこんだ客の、ずしりと重い懐中である、旅へ出ての手始め、三次は気負ってこいつを狙った。
ところがここに妙なことが起った。というのは、宿の寝鎮まるのを待って、三次が自分の部屋をぬけ出すとたんに、隣の部屋で端唄を唄いだす者がある――それがまた不思議に三次の胆へびんと響いて、どうにも足が竦んでしまうのだ。今夜もこれで二度目になる、
「畜生」
三次は口惜しそうに呟いた、「高の知れた端唄ぐれえが、なんでこんなに胆へ耐えるんだか、ぜんてえ訳が分らねえ……」
小首を捻る耳へ、嘲るように唄は続いた。よく聞けば箱根から先には珍しい薗八節である、何ともいえぬ渋い節回し、
……様を待つ夜の窓の笹
露のけはいもあさましや
麻の葉染めの小掻巻――
こっちが部屋をぬけだすのと同時に、符牒を合せたように唄いだす相手。こいつぁ唯者でないぞと腕組みをした三次、
「まてよ。薗八節で文句はいつもきりぎりす、薗八節できりぎりす。どこかで聞いたことのある文句だぞ――」
しばらくじっと考えていたが、不意に、
「あっ、暗がりの乙松だ」
と膝を叩いた、「あいつだ、どうして今まで気がつかなかったろう、江戸であれほど評判を聞いていたのに――そうか、こんな処へふけ込んでいたのか」