菊千代抄
本文約35,900字 ・ 読了時間 約72分
あらすじ(AIが作成しました)
巻野家の第一子として生まれた菊千代は、自身の性にまつわるある秘密を抱えながら育つ。幼少期に受けた衝撃的な出来事や親との歪な関係に苦悩しつつ、唯一の理解者である椙村半三郎との関係を深めていく。やがて二十歳で分封を受け中山殿と呼ばれるようになった菊千代は、満たされない日々の中で自らの生に絶望と渇望を募らせる。ある春の夜、長年寄り添ってきた半三郎に対し、切実な願いを吐露するに至るまでの軌跡を描く。
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一
菊千代は巻野越後守貞良の第一子として生れた。母は松平和泉守乗佑の女である。貞良は雁の間詰の朝散太夫で、そのころ寺社奉行を勤め、なかなかはぶりがよかった。
巻野家の上屋敷は丸の内にあったが、菊千代はおもに日本橋浜町の中屋敷か、深川小名木沢の下屋敷でそだてられた。養育の責任者は樋口次郎兵衛といい、もと次席家老を勤めた謹厳でしずかな老人だった。身のまわりのせわは松尾という乳母がした。彼女は木下市郎右衛門という軽い身分のものの娘で、いちど物頭の屋代藤七へ嫁したが、二年めに子を産むとまもなく死別してしまった。そのときはすでに菊千代の乳母にあがっていたので、以来ずっと側をはなれず仕えとおした。
父の貞良は月に五たびくらいは欠かさず会いに来た。髭の濃い、眼の大きな、こわいような顔で、背丈の五尺八寸あまりもある、躯つきの逞しい人だったが、口のききぶりはしずかでやさしく、笑うと濃い口髭の下にまっ白なきれいな歯が見え、片方の頬にえくぼができる。いかにも穏やかな温かそうな笑い顔で、これには誰もがひきつけられずにはいられなかったようだ。
会いに来ると、父は菊千代を前に坐らせてたのしそうに酒を飲んだ。その席には給仕のために少年の小姓を二人、それと乳母の松尾しか近よせなかった。またどんな急用があっても取次ぎは禁じられていた。……まだ菊千代が乳母の手に抱かれているじぶんから、貞良はしきりに酒を飲ませた。三つ四つになると膳を並べさせ、「さあ若、ひとつまいろう」などとまじめな顔で盃を持たせたりした。
母にはごくたまにしか会わなかった。一年に三回か五回くらい、必要のある式日に上屋敷へゆくので、そのとき会うわけであるが、菊千代はあまり母が好きではなかった。髪毛が重たそうにみえるほど多く、頬がこけて、あとで聞くと病身だったというが、いつも沈んだ顔つきで、菊千代をいつも可愛がって呉れるようなことはなかった。むしろ菊千代の姿を見るのがつらいような、眼をそむけたいといったふうなようすさえ感じられた。
――そうだ、母にはつらかったのだ。