菊屋敷
本文約36,400字 ・ 読了時間 約73分
あらすじ(AIが作成しました)
松本藩の儒官であった亡き父の屋敷で暮らす志保は、父の忌日に集まる門人たちとの交流や、妹夫婦が預けていった甥の晋太郎の養育に生き甲斐を感じていた。しかし、門人たちが江戸へ旅立ち、成長した晋太郎も両親と共に去ることになる。孤独な日常へ戻ることを悟りつつも、自身の心を支え育んだ愛すべき存在たちがそれぞれの人生を歩み始めたことを受け入れ、志保は静かに新たな未来への感慨を抱く。
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一
志保は庭へおりて菊を剪っていた。いつまでも狭霧の霽れぬ朝で、道をゆく馬の蹄の音は聞えながら、人も馬もおぼろにしか見えない。生垣のすぐ外がわを流れている小川のせせらぎも、どこか遠くから響いてくるように眠たげである、……露でしとどに手を濡らしながら、剪った花をそろえていると、お萱が近寄って来て呼びかけた。
「お嬢さま、もう八時でございます、お髪をおあげ致しましょう」
「おやもうそんな時刻なの」志保は眉を寄せるようにして空を見あげた、「……霧が深いので刻の移るのがわからなかった、それでは少し急がなくてはね」
「お支度はできておりますから」そう云いながらお萱は、まじまじと志保の顔を見まもり、まあと微かに声をあげた、「……たいそう今朝は冴え冴えとしたお顔をしていらっしゃいますこと、なにかお嬉しいことでもあるようでごさいますね」
「……そうかしら」志保は片手をそっと頬に当てた、「そういえば今朝はなんだかよいことがあるような気がして、……そんなことがある筈はないのだけれどね」
「そのように仰しゃるものではございません、虫の知らせというものはあるものでございますよ、それに今日は御命日でございますから、本当になにかよいことがあるかも知れませんですよ」
そうねと笑いながら、志保は花を持って家へあがった。