TRENDIA CLASSIC

霜柱

山本周五郎

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「繁野という老職を知っているか」

「繁野、――」石沢金之助は筆を止めて、次永喜兵衛を見あげた、「老職には二人いるが、どうかしたのか」

「としよりの家老のほうだ」

「御家老なら兵庫どのだろう、むろん知っているが、それがどうした」

「おれはつくづく」と云いかけて、喜兵衛は石沢の机へ手を振った、「もう片づくんじゃないのか」

「そう思っていたところだ」

「じゃあ下城してから話そう」と喜兵衛は云った、「中ノ口のところで待ってる」

そして足早にそこを去った。

老いぼれの、田舎者の、わからずやのへちゃむくれめ、次永喜兵衛は心の中でそう罵っていた。中ノ口を出て、木戸のところまでいっても罵り続け、石沢が来るまで、通りかかる下役の者たちが挨拶をしてゆくのに、ろくさま会釈も返さず悪口を並べていた。

「家でいっしょに夕食をしてゆかないか」石沢は来るとすぐに云った、「このごろあらわれないので家の者たちが心配しているぞ」

「一杯やりたいんだ」歩きだしながら喜兵衛は云った、「むしゃくしゃしてやりきれない、どうしても今日は一杯やりたいんだ」

「そんな気持で飲んだってうまくないだろう、とにかく家へゆくことにしたらどうだ」

「迷惑ならここで別れるよ」

「そろそろ癖が出るな」石沢は頭を振った、「そういう約束ではなかった筈だ」

「あんなくそじじいがいるとも云わなかったぜ」

「どこへゆくんだ」

「雪ノ井のほかにいい場所があったら教えてくれ」と喜兵衛が云った、「おちついて飲めるうちといえば雪ノ井がただ一軒、芸妓もいねえというんだからひでえ土地だ」そして吐きだすように付け加えた、「おれはまるでペテンにかかったような心持だぜ」

石沢金之助は黙って歩いていた。

大手門を出て堀端を右へゆき、蔵町から横井小路へぬけると馬場、その柵に沿った片側並木の道を左にまわり、明神の森につき当って、門前を右に二丁ほどゆくと大きな池のふちへ出る。雪ノ井という料理茶屋はその池畔にあるのだが、そこへゆくまでずっと、喜兵衛は休みなしに悪口を云い、女中に案内されて座敷へとおってからも、まだ舌の疲れはみせなかった。

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