霜柱
本文約14,300字 ・ 読了時間 約29分
あらすじ(AIが作成しました)
郡代支配の役職に就く次永喜兵衛は、ある老職と対立し、殺意を抱く。殺害を実行しようと鶴ヶ岡の八幡社へ向かった喜兵衛は、霧の中で血を流して倒れるその老職に遭遇する。自らの手で事を終えたという老職は、襲ってきた相手が震えながら人違いだと口にしたことを語り、涙を流す。喜兵衛は老職の願いを聞き入れ、医者と駕籠を呼びに走る。思惑とは異なる事態のなかで、老職が抱えていた思いと悲哀が浮かび上がる。
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一
「繁野という老職を知っているか」
「繁野、――」石沢金之助は筆を止めて、次永喜兵衛を見あげた、「老職には二人いるが、どうかしたのか」
「としよりの家老のほうだ」
「御家老なら兵庫どのだろう、むろん知っているが、それがどうした」
「おれはつくづく」と云いかけて、喜兵衛は石沢の机へ手を振った、「もう片づくんじゃないのか」
「そう思っていたところだ」
「じゃあ下城してから話そう」と喜兵衛は云った、「中ノ口のところで待ってる」
そして足早にそこを去った。
老いぼれの、田舎者の、わからずやのへちゃむくれめ、次永喜兵衛は心の中でそう罵っていた。中ノ口を出て、木戸のところまでいっても罵り続け、石沢が来るまで、通りかかる下役の者たちが挨拶をしてゆくのに、ろくさま会釈も返さず悪口を並べていた。
「家でいっしょに夕食をしてゆかないか」石沢は来るとすぐに云った、「このごろあらわれないので家の者たちが心配しているぞ」
「一杯やりたいんだ」歩きだしながら喜兵衛は云った、「むしゃくしゃしてやりきれない、どうしても今日は一杯やりたいんだ」
「そんな気持で飲んだってうまくないだろう、とにかく家へゆくことにしたらどうだ」
「迷惑ならここで別れるよ」
「そろそろ癖が出るな」石沢は頭を振った、「そういう約束ではなかった筈だ」
「あんなくそじじいがいるとも云わなかったぜ」
「どこへゆくんだ」
「雪ノ井のほかにいい場所があったら教えてくれ」と喜兵衛が云った、「おちついて飲めるうちといえば雪ノ井がただ一軒、芸妓もいねえというんだからひでえ土地だ」そして吐きだすように付け加えた、「おれはまるでペテンにかかったような心持だぜ」
石沢金之助は黙って歩いていた。
大手門を出て堀端を右へゆき、蔵町から横井小路へぬけると馬場、その柵に沿った片側並木の道を左にまわり、明神の森につき当って、門前を右に二丁ほどゆくと大きな池のふちへ出る。雪ノ井という料理茶屋はその池畔にあるのだが、そこへゆくまでずっと、喜兵衛は休みなしに悪口を云い、女中に案内されて座敷へとおってからも、まだ舌の疲れはみせなかった。