一の一
「……どなたです」
そう云って覗いた顔を見て友吉はまごついた。家を間違えたのかと思って慌てて左右を見回したが、間違えるはずはなかった。
「ここに角太郎という職人がいたはずなんですが、引越しでもしたんでしょうか」
「さあ……角太郎さんねえ」
四十がらみの実体な男だった。「……聞いたことのねえ名だが、お豊……おめえ角太郎さんてえ人を知ってるか」
「そんな人は知らないねえ」
障子の向うで面倒くさそうな声がした。
「私どもはこの三月に移ってきたんだが、そのまえには吉兵衛という同業の担ぎ呉服がいましてね、その男は一年ばかりここにいましたよ」
「そうですか。……そりゃあどうも、とんだお邪魔を致しました」
友吉はとぼんとした気持で路地を出た。
旅合羽に草鞋ばきで番傘をさしている。そのちぐはぐな恰好をそっくり写したような気持だった。……箱根を越すときからぶっ続けの雨は、江戸ではもう半月以上になるという、七月二十日だというのに袷を着てもいいほどの冷えかたであった。
「どうしたんだ、角のやつ」
京橋八丁堀の裏街、暮れかかる道の上は足の甲を越すほど雨水が溜まっていた。
「いくら信りをしねえ約束だって、引越し先くれえ知らせてよこさねえ法があるか、……どこへ越しやがったんだろう」
友吉は舌打ちをしながら呟いた。
張詰めてきた気持が一時に崩れて、けじめのつかない、がっかりした頭の芯に、……ふとお菊の美しい眸が大きく描き出された。
「よう、友さんじゃあねえか」
「……え!」
「やっぱりおめえか、どうしたい」
風呂帰りであろう、浴衣に平絎帯で手拭を持った三十七八の男が、傘を傾けながらやって来る。……友吉にとっては親方筋に当る大工の棟梁の息子で、仁太郎という道楽者だった。
「ああこれは、堀の若棟梁でございましたか」
「ずいぶん久しぶりの対面じゃねえか、なんだか上方へ行っていたってえが、いま帰って来たのかい」
「へえ、まだこんな恰好なんで」
「そうかい、それでおめえ……これから角のところへ行くつもりなんだろうが、角はいねえぜ」
「若棟梁はご存じですか」