城中の霜
本文約12,800字 ・ 読了時間 約26分
あらすじ(AIが作成しました)
安政の大獄が終段を迎える江戸。大老井伊直弼は橋本左内へ死罪を申し渡す。左内は刑場で従容として辞世を詠んだと伝えられるが、直弼はそれを聞いて不快な表情を浮かべる。一方、左内を慕う香苗は、彼が笑って死んだという噂に違和感を抱く。後に左内が最期に声を忍んで涙を流したと知った香苗は、それが命を惜しむ未練ではなく、志を抱く武士としての誇り高い姿であったと確信し、心の中で彼との再会を果たす様子を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
安政六年十月七日の朝、掃部頭井伊直弼は例になく早く登城をして、八時には既に御用部屋へ出ていた。今年になって初めての寒い朝であった。大老の席は老中部屋の上座にあり太鼓張りの障子で囲ってあるし、御間焙りという大きな火鉢のほかに、側近く火桶を引寄せてあるが、冴えかえった朝の寒気は部屋全体にしみ徹って、手指、足の爪先など痛いように凍えを感じた。
然し冴えかえっているのは寒気だけではなかった。常には賑やかな若年寄の部屋もひっそりとしているし、脇坂安宅、太田資始、間部詮勝以下の居並んでいる老中部屋も、破れたギヤマンの角を思わせるような、鋭く澄徹った沈黙に蔽われていた。後に安政大獄と呼ばれた大疑獄が、まさに終段に入りつつある時だった。遽しく出入する御同朋頭や御部屋坊主たちも、みんな蒼ずんだ顔をしていたし、往来する老中、若年寄の人々も落着きのない眼を光らせていた。間部詮勝と脇坂安宅の前には、書類のはみ溢れた御用箱があって、扇が(済んだ書類を挾んで次へ廻すもの)休む間もなく次から次へと動いている……これらの眼まぐるしい活動は、圧しつけられるような静かさのなかで、然も極めて忍びやかに繰り返されているのだが、それにも拘らず、老中部屋の空気は、まるで巨大な樹木が眼に見えぬ旋風に挑みかかるかのように震撼していた。
隔ての障子の中では、井伊直弼が頻りに、右の襟首へ手をやっては眉を顰めていた。肥満した、脂肪質の彼は、二三日まえから襟首に出来ている面皰が、着物の衿に触れては不快な感じを伝えるので、そのたびに手をやって揉み出そうとするのだが、小豆ほどもある脂肪の塊を包んだ皮膚は、指で圧迫する毎に鋭く痛むだけで、いっかな口を明こうとしないのである。……九時の土圭が鳴った。そして間もなく、御同朋頭が町奉行石谷因幡守の参入を報じた……直弼は頷いて、引寄せてあった火桶を押しやった。因幡守穆清は蒼白い痙攣ったような表情をしていた。彼が大老の前に着座すると共に、若年寄の部屋も老中部屋も、廊下の隅々までがひっそりとなり、今までの静けさとは違った更に底寒い沈黙に包まれるのが感じられた。
「御裁決の罪人の処刑を終りました」