一
奉行職記録所の役部屋へ、小野十太夫がはいって来る。彼は汗になった稽古着のままで、ときには竹刀を持ったままのこともある。
「おい土田」と十太夫はどなる、「今日は帰りに一杯やろう、枡平へいこう、いいな」
それから四半刻もするとまたやって来る。やっぱり稽古着のままで、額に汗が光っている。
「枡平はよそう、土田」と十太夫はどなる、「あそこは気取ってて面白くない、袖町のよし野で一杯やろう、いいな」
また或る日は、やはり汗になった稽古着のままとび込んで来る。汗止めもそのまま、片手で袴を掴んで、湯気の立っているような顔で、せいせいと荒い息をしている。
「おい土田」と十太夫はどなる、「まだ終らないのか、まだ仕事があるのか」
土田正三郎は黙ったまま、机の上をゆっくりと手で示す。まだ仕事の残っているときは、机の上には書類や帳簿がひろげてあり、硯箱の蓋があいてい、彼の手には筆が握られている。仕事がもう終っていれば、そこには書類も帳簿もないし、硯箱には蓋がしてあるし、机の上はきれいに片づいている。
「よし、道場へ来てくれ」と十太夫は片づいている机の上を見てせきたてる、「ちょっと道場へ来て相手になってくれ、癇が立ってしようがないんだ、一本でいいから相手になってくれ、さあいこう、おい、手っ取り早くしてくれよ」
そこで土田正三郎は立ってゆく。道場は三の丸の武庫の脇にあり、刻限のまえなら門人たちがいるし、刻限過ぎでも次席の安川大蔵がいて、土田が稽古着になるのを助ける。早く来いよ、と十太夫がせきたてる。いつまでかかるんだ、手っ取り早くしろよ、じれったいな、などと云って足踏みをし、少しのまもじっとしていない。土田はすっかり道具をつけるが、十太夫は素面素籠手である。というのは、打ち込むのは十太夫で、土田は受けるだけだからだ。
「さあ」十太夫は竹刀でびゅっと空を切って叫ぶ、「ゆくぞ」