その木戸を通って
本文約22,300字 ・ 読了時間 約45分
あらすじ(AIが作成しました)
事務を務める平松正四郎の家に、素性不明の娘が突然現れる。その存在を知った婚約者の加島家からは、縁談の中止を条件に娘を追い出すよう迫られる。しかし、寄る辺のない彼女を見捨てられない正四郎は、周囲の非難を顧みず家に留める決意をする。その後、娘はふさと名付けられ正四郎の家で暮らすが、ある日忽然と姿を消す。記憶を失っていた彼女が去りゆく姿を想いながら、正四郎はいつか再び彼女が戻ることを信じ、その帰りを待ち続ける。
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一
平松正四郎が事務をとっていると、老職部屋の若い付番が来て、平松さん田原さまがお呼びですと云った。正四郎は知らぬ顔で帳簿をしらべてい、若侍は側へ寄って同じことを繰り返した。
「おれのことか、なんだ」と正四郎が振向いた、「平松なんて云うから、――ああそうか」と彼は気がついて苦笑した、「平松はおれだったか、わかった、すぐまいりますと云ってくれ」
正四郎は一と区切ついたところで筆を置き、田原権右衛門の部屋へいった。田原は中老の筆頭で、松山という書役になにか口述していたが、はいって来た正四郎を見ると口述を中止し、書役を去らせて、正四郎に坐れという手まねをした。正四郎は坐った。
「おまえはいつか、江戸のほうにあとくされはないと云ったな」と田原が訊いた。
「はい、そう申しました」
「加島家と縁談の始まったときだ、覚えているか」
「はい、覚えています」
「私はおまえの行状を知っているから念を押して慥かめた、もしや江戸のほうに縁の切れてない女などがいはしないか、いるなら正直にいると云うがいいと、そうだろう」
正四郎は頷いた。彼の顔にはほんのかすかではあるが、不安そうな、おちつかない色があらわれたけれども、それはすぐに消えて、こんどは力づよく頷き、そして確信ありげに云った、「仰しゃるとおりです、それに相違ございません」
田原権右衛門は口を片方へねじ下げたので、皺の多いその顔が、そちらへ歪み、まるでべっかんこでもするようにみえた。
「では訊くが、いまおまえの家にいる娘は、どういう関係の者だ」
「私の家にですか」正四郎は唾をのんだ、「私の家には娘などおりませんが」
「いるから訊くんだ」
「それはなにかの間違いです」彼の語調はそこでちょっとよろめいた、「御承知のように、御勘定仕切の監査のため、私は三日まえからこの城中に詰め切っています、ですから、留守になにがあったかは知りませんが、三日まえに家を出るまでは」
「おまえの家に娘がいるのだ」田原はひそめた声できめつけた、「しかもそれを、加島どのの御息女が見て来られたのだ」
正四郎は口をあいた、「――ともえどのがですか」