滝口
本文約49,600字 ・ 読了時間 約100分
あらすじ(AIが作成しました)
珂知川のほとりで釣りをしていた益村安宅のもとへ、畠中辰樹が訪ねてくる。畠中は、亡き妻への未練から縁談に応じない益村を諭し、自身の江戸への出府と大事業である川普請の役目を告げる。一方、益村は料亭「衣笠」で働くおりうに心を寄せ、彼女がかつて経験した過酷な過去に触れる。水が洲にぶつかって分かれ再び合流するように、人と人の関係も流転することを語る安宅と、周囲の思惑や政局が、川の流れのように静かに交錯する。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
益村安宅が釣りをしていると、畠中辰樹が来て「釣れたか」と云った。益村は振り向きもしなかったが、声を聞いて畠中だということはわかった。益村は返辞をせず、畠中はその脇に腰をおろした。七月のよく晴れたひるさがりだが、うしろの崖に樹の茂みがあり、二人のいるところは日蔭になっているうえ、川から吹いて来る風があるので、少しも暑さは感じられなかった。
「なにか用でもあるのか」と益村がきいた。
「べつに」と畠中が答えた、「たぶんここだろうと思ったんでね」
益村はゆっくりと頭をめぐらせて畠中の顔を見た。それからまた釣竿の先へ眼を戻した。畠中は話があって来たのだ。城下から一里半ちかくもあるこんな山の中へ、用もなしにやって来るわけがない。そして、その話の内容も益村には察しがついた。料亭「衣笠」のおりうとの噂が耳にはいり、その意見をしに来たのだろう、そう思ったけれども、益村はなにも云わなかった。
「少しは釣れたのか」と畠中がきいた。
益村は脇に置いてある、乾いたままの魚籠を指さし、頭を左右に振った。
「それでも面白いのかい」
「この川は十洲川ともいうんだ」と益村は眼の前の流れをみつめながら云った、「――正確に数えると洲は十三ある、ここから三十町ほど上で始まって、川下の滝のところまでにな、――水はその洲の一つ一つにぶつかって分れ、また一つに合流し、そしてまた二つに分れる」
「豊水期にもこれらの洲は冠水することなく」と畠中が暗誦するように続けた、「またその数の増減する例もなし、これ珂知川のふしぎの一とす、――平州地誌に書いてあるさ」
「釣れても釣れなくっても」と益村は問いに答えた、「こんなことはかくべつ面白いものじゃないさ」
畠中は黙っていたが、やがて水面を指さし、引いているぞと云った。けれども益村には聞えたようすがないので、もういちど「引いているよ」と注意した。
「魚じゃないさ」と益村は答えた。
「浮子を見ろよ」
「鉤がなにかにひっかかったんだろう」益村はそう云った、「心配するな、餌のない鉤に魚はくいつきゃあしないから」