合歓木の蔭
本文約13,700字 ・ 読了時間 約28分
あらすじ(AIが作成しました)
演能の席で、見知らぬ誰かの強い視線を感じた奈尾は、帰宅後、袂に忍ばされた恋文を見つける。それは庭の合歓木の蔭での密会を求める誘いだった。岩田半三郎との輿入れ後も、奈尾は夜ごとに庭で愛の言葉を交わす秘密の情事に耽る。やがて、その密会相手が垣根越しに発した言葉から、奈尾は驚愕の事実に直面する。夫である半三郎がすべてを知った上で、妻の心の奥底にある危うい情熱を抱きとめ、優しく包み込もうとしていたことを悟る。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
誰かが自分を見ている。奈尾はさっきからそのことに気がついていた。もちろん右側の男たちの席からである、さりげなく振り向いてみるが、その人はすばやく視線をそらすとみえて、どうしてもその眼をとらえることが出来なかった。――こんど完成した二の丸御殿の舞台で、こけら落しとかいう、江戸から観世一座が呼ばれ、殿さまも安宅の弁慶をおつとめになる演能に、寄合以上の者が家族といっしょに拝見を許された。母のない奈尾は叔母のまさ女に付き添われて来たのだが、席へつくとすぐ叔母は知合いの婦人と会い、その婦人がさらに三人ほどつれを呼んできた。旧友がひとかたまりになったというかたちで、奈尾はいつか会話の外へ残されてしまった。……市蔵という兄だけでおんな姉妹もないし父が厳しくて稽古ごとなどもみんな師匠を家へ呼んで習ったから奈尾には友達というものがなかった。まわりを見ると同じ年ごろの娘たちはたいていつれがあって、おかしそうに耳こすりをしたり、ささやいたりぜをしあったりしている、慎ましくとりつくろっているだけ余計に楽しそうである。なかには男の席から会釈をおくられて、羞かしそうに赤くなる者や、勇敢に挨拶を返してつれの娘に叩かれる者などもいた。
「さあこんどは安宅ですよ奈尾さん、殿さまの弁慶は江戸ではたいそうな評判だそうですから、よく気をつけて拝見しましょうね」