ちゃん
本文約22,200字 ・ 読了時間 約45分
あらすじ(AIが作成しました)
日本橋の長屋に住む重吉は、仕事の不調から酒に溺れ、勘定日の夜ごとにくだを巻いて帰宅する。家族は懸命に働きながらそんな父を支え、やがて一家は店を離れ自力で再出発することを決意する。苦境にあっても家族の絆を失わず、互いを思いやりながら日々を重ねる職人一家の姿を描く。環境が変わっても変わらぬ日常が続く中、重吉と家族の情愛が長屋の人々に静かに見守られる様子を綴る。
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一
その長屋の人たちは、毎月の十四日と晦日の晩に、きまって重さんのいさましいくだを聞くことができた。
云うまでもないだろうが、十四日と晦日は勘定日で、職人たちが賃銀を貰う日であり、またかれらの家族たちが賃銀を貰って来るあるじを待っている日でもあった。
その日稼ぎの者はべつとして、きまった帳場で働いている職人たちとその家族の多くは、月に二度の勘定日をなによりたのしみにしていた。夕餉の膳には御馳走が並び、あるじのためには酒もつくであろう。
半月のしめくくりをして、子供たちは明日なにか買って貰えるかもしれない。もちろん、いずれにしてもささやかなはなしであるが、ささやかなりにたのしく、僅かながら心あたたまる晩であった。
こういう晩の十時すぎ、ときにはもっとおそく、長屋の木戸をはいって来ながら、重さんがくだを巻くのである。
「銭なんかない、よ」と重さんがひと言ずつゆっくりと云う、「みんな遣っちまった、よ、みんな飲んじまった、よ」
酔っているので足がきまらない。よろめいてどぶ板を鳴らし、ごみ箱にぶっつかり、そしてしゃっくりをする。
「飲んじゃった、よ」と重さんは舌がだるいような口ぶりで云う、「銭なんかありゃあしない、よ、ああ、一貫二百しか残ってない、よ」
長屋はひっそりしている。重さんは自分の家の前まで、ゆっくりとよろめいてゆき、戸口のところでへたりこんでしまう。すると雨戸をそっとあけて、重さんの長男の良吉か、かみさんのお直が呼びかける。
「はいっておくれよ、おまえさん」と、お直なら云う、「ご近所へ迷惑だからさ、大きな声をださないではいっておくれよ」
喉で声をころして云うのだ。
「ちゃん、はいんなよ」と良吉なら云う、「そんなところへ坐っちまっちゃだめだよ、こっちへはいんなったらさ、ちゃん」
「はいれない、よ」重さんはのんびりと云う、「みんな遣っちまったんだから、一貫二百しか残ってないんだから、ああ、みんな飲んじまったんだから、はいれない、よ」
長屋はやはりしんとしている。まだ起きているうちもあるが、それでもひっそりと、聞えないふりか寝たふりをしている。――