ばちあたり
本文約22,300字 ・ 読了時間 約45分
あらすじ(AIが作成しました)
危篤の報せを受け、健、啓三、順子の三兄妹は、母の暮らす雪深い田舎町へと向かう。先に母と暮らしていた末弟の敏夫は、母の死後、葬儀を行わずに故人を弔うという独自の考えを貫き、兄妹と衝突する。母に対する生前の厳しい評価や確執が語られる中、健は、母が密かに遺したテープ・レコーダーの音声を通じて、その頑なな態度の裏側に隠されていた敏夫への深い愛情と苦悩を知る。絶望の淵にいた敏夫に対し、遺言ともいえる母の温かな言葉が重なり合う物語である。
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一
私をみつけるとすぐに、弟の啓三は例のとおり大きく手を振った。私は気がつかないふりをして、三番線のプラット・ホームのほうを見ていた。啓三は近よって来ると、これまた例の如く私の肩を叩いた。彼の体から香水が匂った。
「早かったね」と啓三が云った、「病院のほうはいいの」
私は黙って頷ずいた。
「この暮になってひどいよ、おれにとっちゃあ一時間が何万円にもつくときだからね」と啓三はなめらかに云った、「往復するだけでも二日だぜ、もしものことがあっても一日しきゃ日は取れないんだ、一日だな、一日以上は絶対にだめなんだ、おふくろも罪なときに罪なことをするよ」
私は黙って階段口のほうを見た。啓三は母を責めているのではない、一時間が何万円にもつくという、自分の言葉の裏書きをしているにすぎないのだ。
「こんなところに立っていてもしようがない」と啓三が云った、「中へはいって坐ろうじゃないの」
「室町がまだ来ないんだ」
「いいよ、車がきまっててシート・ナンバーがきまってるんだもの、そうでなくったってあの女傑がまごつきますかさ、わからなければ駅長を呼びつけるくちですよ、駅長おどろくなかれって、ね」
私は彼に「乗れよ」と云った、発車時刻が迫っていて、歩廊にいる客たちは次つぎと車内へはいってゆき、私たちのまわりには見送りの人や、走って来る乗客たちがまばらに見えるだけであった。
「ねえ、どう思う」と啓三は急に声をひそめて云った、「キトクっていう電報はこれで三度めだろう、あんたは三度とも診察しているでしょう、それでこんどはどうだと思う」
私は穏やかに云ってやった、「きみは香水のスプレーは丹念に握るくせに、髭を剃ることは忘れるらしいな」
「あんたにはわからないポケットさ」啓三は右手で口のまわりを擦った、「このぶしょう髭を少し伸ばしてるのが、当代仲買人のはやりっ子っていう看板なんでね、いまどき髭をきれいに剃ってるなんてのはバーテンダーか、信託銀行の支店長かベル・ボーイ、やあ、女傑があらわれましたぜ」