豹
本文約6,500字 ・ 読了時間 約14分
あらすじ(AIが作成しました)
神戸の須磨に暮らす兄の妻・純子のもとへ滞在する正三は、近隣から逃げ出したという豹の噂に不安な日々を送る。ある夜、庭で不審な物音を聞いた純子が正三の部屋を訪れ、二人は暗闇の中で密やかに身を寄せ合う。翌朝、豹が前日に射殺されていた事実を教えられた正三は、昨夜の純子の怯える様子が虚偽であったと悟る。正三は純子の底知れぬ性格に恐れを感じ、滞在を切り上げて東京へ帰ることを決意する。
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月見山で電車を下りると、いつもひっそりしている道の上に、ざわざわと人の動くのが見えた。正三はべつに気にもとめず、山手のほうへ大股に登っていくと、空地の角にある音楽家の住居で、近所から薔薇屋敷と呼ばれている邸の門前にも、音楽家の若い妻君を中心に付近の婦人たちが四五人集まって何かひそひそ話している。正三はその傍を通り過ぎるとき、音楽家の妻君が、
「宅では拳銃の弾丸を買いにやりました」
と云っているのを聞いた。
「ただいま」
庭先から挨拶しておいて、離屋になっている自分の部屋へあがると、間もなく甥の一政がやって来て、縁先から、
「叔父さん、大変ですよ」
と大声で呼んだ。
「どうした」
「あのねえ須磨寺の豹が逃げたんです、人が二人たべられましたって」
「豹が逃げた――?」
正三は何をいうかと思いながら、障子を明けて縁側へ出た。五歳になる一政は、好奇と恐怖の錯雑した表情で、
「本当です、小田さんとこではペスを鎖でつないでしもうた」
「お帰りなさい」
嫂の純子が、母屋の縁先に立って、ふところ手をしたまま静かに声をかけた。正三は庭穿をつっかけて、一政の肩に手を回しながら母屋のほうへ行った。
「お風呂へお入りなさい」
「政ちゃんは?」
「僕もう入ってしもうた」
云ってから、そっと母の眼を凝視て
「もう一度入ったろか」
低い声で云いながら舌を出した。そして純子のきつい眼のこないあいだに、何やら喚きながら、隣との庭境のほうへ駈出した。
正三の兄がアメリカで客死したのは二年前の夏であった。兄はX汽船会社の支店長をしていたのだが、赴任して三年めに拳銃で自殺をしてしまったのだ。原因は金銭上の問題であるともいうし、さる三流女優とのトラブルであったとも伝えられたが、結局のところ真相は知れずにおわった。