へちまの木
本文約29,000字 ・ 読了時間 約59分
あらすじ(AIが作成しました)
小料理屋「沢茂」を訪れた房二郎は、瓦版屋で働く木内桜谷と出会う。木内は、自身の妻が箱根での女中奉公を終え帰郷するため、合わせる顔がないと苦悩していた。生活のために記事を金に換え、ゆすり同然の行為で生計を立てる木内の惨めな姿を目の当たりにした房二郎は、自身の境遇と重ね合わせ、馴染めない町人社会から離れる決意を固める。本作は、漂泊の孤独を抱える房二郎の視点を通じ、社会の片隅で生きる人々の哀歓と葛藤を描く。
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一
房二郎が腰を掛けたとき、すぐ向うにいたその男は、鰺の塩焼を食べながら酒を飲んでいた。房二郎は酒を注文し、肴はいらないと云った。ふくれたような顔の小女は、軽蔑したような声で、酒一本、肴はいらないとさ、とあてつけがましい声でどなった。房二郎は慣れているらしく、知らん顔をしてい、その男はちょっとこっちを見たあと、骨までしゃぶった塩焼の皿を押しやり、芋汁を呉れと云った。
その「沢茂」という店は小さかった。客が十人もはいれるかどうか、まだ木ぐちは新らしいが、ぜんたいにひどく気取った造りになっていた。給仕は二人の小女で、どちらも田舎出だろう、化粧をしていないのは当然だが、手足もまっ黒だし、赤ちゃけた髪もぼさぼさ、動作も荒っぽいという、まるで野放しの仔熊みたような小娘たちであった。
「年に一度か二度のこったが」脇のほうの飯台で職人ふうの、中年の男二人が、飲みながら話していた、「ついこのあいだまたやりゃあがった、ちっとばかりならいいが、敷蒲団から畳まで濡らしちゃってるんだ」
「富坊はまだ五つだったろう」と相手の男がきいた。
「今年で六つだ」とこちらの男が云った、「六つにもなるのにおねしょじゃあ済まされねえ、その蒲団を背負わせて、町内を三遍廻って来いと突き出してやった」
「おれにも覚えがあらあ、いやなもんだったぜ、みんなにゃあ見られるし、笑うやつもあるしな、富坊もさぞ辛かったろう」
「どうだかな」とこちらの男が云った、「町内を廻って来いと云ったのに、野郎、そのまんま神田までいっちまった」
相手の男は聞き違えたと思ったように、どこだって、と反問した。
「神田よ、神田の多町までいっちまったんだ」
「だって」と相手の男が云った、「おめえのうちは川向うだろう」
「川向うも川向う、亀戸の先よ」
「へえー、そいつはおどろきだな」
「おどろきどころじゃあねえや、おれが帳場から帰ると、町内は迷子捜しの大騒ぎよ」